聖書箇所 ヨハネの福音書9:1-7
1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
中学生の頃、二年間ほど入院していましたが、こんな経験をしました。入院病棟の廊下で、可愛らしい子どもの声が聞こえました。おそらく家族の見舞いに来たのでしょう。声の調子から、ちょうど今の賛美さんくらいの年齢だったと思います。病院は回診も終わった午後過ぎで、見舞客も少なく、しんと静まり返っていました。その子の声が病室にまではっきりと聞こえました。そしてその子は無邪気に、お母さんにこう聞いていました。「こんなにたくさん、どうしてここに入っているの?何か悪いことでもしたの?」刑務所じゃないんだよ、と笑って済ませる程度のたわいない言葉です。しかし次の瞬間、遠くの病室から怒鳴り声が聞こえました。「何だと!もう一回言ってみろ!」続けてお母さんらしき声が短く「しっ!」と叫んでぱたぱたと走り去っていく足音が聞こえました。
今日の聖書箇所を読み返すたびに、この時の経験を思い出します。「大人げない」と一言で済ますのは簡単です。しかし入院患者の中には、何気ない一言にここまで過剰に反応するほど不安に苛まされている人もいるのです。そしてあの日の幼子よりもはるかに残酷な言葉を弟子たちは口にしています。「先生、彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」。しかしこの生まれつき目の見えない人は、決して声を荒げません。まるで目の前で起きていることが何も聞こえないかのように、この人の姿は自分を出そうとしません。聞こえていないはずがないのです。目の見えない人が生きていくためには、ほかの感覚を研ぎ澄ませていくしかないからです。でも彼は弟子たちの言葉にまったく反応しない。息を殺すという表現がありますが、彼は息ではなく心を殺していたのです。外の世界で誰が何を言おうとも、決して反応しないほど、心そのものを殺していました。生まれたときから社会でじゃま者扱いされてきた人生。ただ道ばたで物乞いをするしかなかった人生。彼がその屈辱と絶望を抑えるためにどのように生きてきたか想像がつきます。生きるために耳をそばだてつつ、心はふさぐのです。自分の感情をすべて殺す。外の世界への関心もすべて殺す。そうすることで彼はようやく生きていたのです。
目の前の病人の心を考えない弟子たちと、心を殺していた病人。そのただ中でイエスは言われました。3節、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」。ここでも私は、あの日の親子を思い出します。彼らは「しーっ」と人指し指を口に当てて、その場を逃げ去っていきました。しかしイエス様は逃げません。逃げる代わりに宣言します。「神のわざがこの人に現れるためです」と。私たちが逃げるのは、答えを持っていないからです。しかしイエス様は持っておられる。「すみません」「失礼しました」そのような謝罪の言葉で終わらせる方ではなく、現実を変えることのできる、人生の答えを持っておられます。
しかし弟子たちのひどい言葉にさえ心を動かさないほど、心を殺している人にどんな言葉が届くでしょうか。だからイエス様の口から出て来たのは言葉ではなく、唾でした。なめらかな慰めの言葉ではなく、ねばねばした唾をイエス様は地面に落としました。何のために?土をこねるためです。泥を造り、それを彼のまぶたに塗ってあげるためです。イエスの言葉は、湖の嵐を静め、死人を生き返らせる力を持っています。しかし生まれつき目の見えない、この人はどんな言葉をも受け入れない。言葉の前に、その心を解き放つ必要がありました。
誰も触ろうとしない、罪の結果と見られていた瞼。神ののろいによって生まれた時から閉じていると言われ続けた二つの瞳。しかしイエス様はそこに泥だらけの指先で触れました。イエスは無言のまま、彼の心へと話しかけます。最初の人アダムが土から造られたように、神であるわたしがあなたの瞳をこの泥から作り直す。イエス様は泥がなくても、言葉だけで彼の目を開くこともできたでしょう。しかしそれで彼の目が開いても、彼が過去の人生の中で受けてきた傷と痛みは消え去りはしない。だからこそ言葉の前に、指で泥を塗られました。これが、私たちの救い主の姿です。
言葉はそれに先立つ関係があってこそ、初めて人を生かす言葉になります。営業マンの鉄則に「モノを売る前に信頼を売れ」というのがありますが、ただの「モノ」ではなく聖書の言葉であってもそれは同じです。もし聖書の言葉が、人格的な触れ合いがないまま、ただ語られるだけであれば、それは人をさばくだけの言葉となってしまいます。東日本大震災が起きたとき、ある牧師はこう言いました。「これは偶像礼拝を続けて来た日本人に対する神の警告である。悔い改めてイエス・キリストを信じなさい」。しかしもう一人の牧師はこう言いました。「私には、神さまの心はわかりません。何を語るべきか、わかりません。」そして彼は自分の教会の信徒を被災地に派遣し、こう言いました。「自分たちが○○教会から来たと決して言ってはならない。ただ黙して復興作業を手伝いなさい。そして人々が求めて来たとき、初めて聖書の言葉を語りなさい」。どちらが、イエス・キリストの姿に似ているでしょうか。
もしこの人が言葉だけで目が開かれたとしても、彼の受けた傷や痛みは何も変わらない。だからこそ、救い主は泥だらけの手を彼の瞼にあてがい、そして初めてそこで彼に向かって言葉を与えたのです。7節、「行って、シロアムの池で洗いなさい」と。その後の彼の行動について、聖書記者ヨハネは驚くほど淡々と語ります。「そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った」。生まれつき目の見えない人が見えるようになった!この奇跡がまるで最低限のことしか語られていません。なぜならば、もっとも彼が伝えようとしたことは奇跡そのものではないからです。誰もその心に入れず、言葉を一切拒んできた病人が、シロアムの池を目指すようになったのはどんな言葉であったか。目が見えるようになると約束したわけでもなく、ただ行って洗いなさいと言われただけです。
しかし彼は信じた。見えるようになるという約束ではなく、行って洗いなさいと言われたこの方そのものを信じたのです。そして目が開かれたとき彼の心が変わったのでもない。シロアム目指して立ち上がったとき、すでに彼の心は変えられていた。変えた力は何か。イエス様の眼差しだった。指の温もりだった。そしてそれら無条件の愛からほとばしる、「行って洗いなさい」という言葉だった。誰もが地面にうずくまっている罪の塊としか見ようとしないこの俺を、あのイエスという方はひとりの人間として見てくれた。彼を変えたのはただ言葉ではない。まなざし、指の温もり、そして言葉でした。
私もまた、この聖書箇所を通してイエス様に出会い、救いを決心しました。この生まれつき目の見えない人が自分自身と重なりました。障がい者というコンプレックスを抱えて惰性のように生き続ける人生にあえいでいた頃でした。苦しい、苦しいよと思いながら、どうすればそこから脱出できるのかがわからない。しかし「神のわざが現れるためです」という言葉を聞いたとき、はるか将来にとっておきの神の計画が用意されているのだと感じました。そして教会に通い、やがて洗礼を受け、後に献身し、今は牧師となっています。
しかし私は勘違いをしていました。いつか遠い将来に人々が驚くような神のわざが私の上に起こるのだと思っていた。しかしそうじゃないと気づいたのです。盲人の瞼が開かれたことが神のわざではなく、決して誰も入れなかった彼の心にイエス様の言葉が届いたことが神のわざであることに気づいた。神のわざは、あなたが将来どんな偉人になるかということではなく、今日イエス様を信じるならば、その時神のわざで起こっているのです。
私の人生は、あのイエス様を心に受け入れた日に完成しました。その後の人生はおまけのようなものです。一日一日、生かされていることを感謝するだけです。永遠の地獄が確定していた罪人が、あらゆる罪を赦されて天国が約束される、これ以上の神のわざがあるでしょうか。だからこそ、ひとり一人が心を決めるべきです。たとえ今日命を失っても、決して後悔しない人生はどこにあるのか。今日、神のわざがこの身に起こることではないのか。イエス・キリストを救い主として信じましょう。その後の人生はすべて神が責任をもって導いてくださいます。最後に、一緒にお祈りをいたしましょう。