聖書箇所 ヨハネ6:51-60
51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
先日、実家に帰省した折、父から数枚の写真を渡されました。今から20年以上前、敬和のフェスティバルで私が演劇に出演していたときのものです。(写真を見せる)




ほとんど心霊写真です。このとき、フェスティバルの演劇部門のチーフを任されたのはよかったのですが、まったく脚本が決まりませんでした。脚本ができないと、稽古と言っても、発声練習くらいしかすることがないのです。毎日屋上にのぼって、みんなで「あえいうえおあお〜」とか叫んでいました。そんな私を見て、敬和のある先生が「ひかりごけ」という戯曲を紹介してくださいました。
しかしいざその戯曲を紐解いてみると、とんでもない内容でした。人肉、つまり人の肉を食べるという話だったからです。太平洋戦争末期、冬の北海道沖で軍用船が座礁します。船長以下、乗組員は何とか脱出するのですが、真冬の知床では、食べるものが何もない。洞窟に潜り込み、全員が日に日に衰弱していく中で、船長は決断します。生きのびるために、仲間の肉を喰らうしかない。この脚本のタイトルになっている「ひかりごけ」とは、人の肉を喰らった者は、首のまわりにぼんやりと浮かぶ青白い光を指します。この船長は、仲間の血をすすり、肉を喰らってでも生きのびなければならない、と仲間に言います。死んでいいのは、天皇のために命を捨てるときだけだ、と。
そして船長の行動は暴走し、狂気へと向かっていきます。仲間の肉を食べることを拒絶して餓死寸前の仲間さえも、あと二、三日すればどうせ死ぬのだと吐き捨て、殺してしまうのです。乗組員は船長以外、みな死ぬか殺され、そして船長は救援隊に助け出されました。しかし彼がなしたことも明るみに出て、彼は裁判にかけられます。その時には彼も狂気から覚めており、仲間を喰らったことを悔いながら、死刑宣告も受け入れるのですが、最後に彼は驚きます。というのは、裁判所にいる判事、検事、弁護人、そして傍聴人に至るまで、首のまわりに青い光が浮かんでいたからです。この船長は生きるために確かに仲間を殺し、そしてその肉を喰らった。しかし戦争とは、その国のすべての者が、国のためと言いながらじつは仲間を殺し、その肉を喰らうことなのだという痛烈な批判をもって、この戯曲は終わっています。
この脚本を初めてみんなで読み合わせしたときの衝撃は、いまだに覚えています。こんなのやりたくないと言った女子学生もおりました。そしてイエスの話を聞いていた弟子たちの衝撃はそれ以上だったでしょう。イエスは言われました。「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはありません」。最後の60節を見ると、この言葉に多くの弟子たちが失望し、イエスのもとを去っていったとあります。それほどまでにひどい言葉でした。特にユダヤ人にとって、血に触ることさえも大きな罪として教えられていましたので、その血を飲むなどとは到底受け入れられないことでした。なぜイエスはここまで言われたのでしょうか。誤解を招く、というレベルを越えています。しかし語った。語らなければならなかった。なぜか。救いというのは、彼らが考えているほど生やさしいものではないのです。動物のいけにえをささげることで罪が赦される?善行を繰り返すことで罪が帳消しにされる?そんなことはあり得ない。私たちすべての人間が抱えている罪を取り除く方法はただ一つ。「人の子の肉を食べ、その血を飲む」。あらゆる人間が嫌悪感を抱かずにはいられない、そのような言葉を用いてイエスは私たちがそこまでしても救われなければならないのだということを示されました。
今日の聖書箇所をギリシャ語の原語で読むと、二種類の「食べる」という言葉が使い分けられています。新約聖書では通常、「食べる」という言葉はエスティオーという単語が使われ、これは新約聖書に158回出てくる。ところがここでは同じ「食べる」でも「トローゴー」という言葉が専ら使われています。このトローゴーは新約聖書の中に6回しか出てこない言葉ですが、そのうち4回がこの箇所で使われています。では同じ「食べる」でも「トローゴー」はどういう意味なのか。「むしゃむしゃ食べる」という意味です。決してきれいな食べ方ではない。この聖書箇所で6回中4回出てくると言いましたが、残りの2回はいずれも罪人の食事というニュアンスで登場します。ですからもし新しく聖書を翻訳するならば、「食べる」ではなく「喰らう」と訳したほうが良い言葉です。「人の子の肉を喰らい、その血をすすらなければ」そのように訳すこともできるでしょう。お上品な食事ではないのです。テーブルマナーを気にしながら、ナプキンで口をふきながらではなくて、ゴクゴク、バリバリ、ムシャムシャ、そんな擬態音が聞こえてくるのです。そばにいる人が顔をしかめるほど。しかし罪から救われるためだったら、本来恥も外聞もありません。それは、まさにかの船長の苦悩に比べることさえできるでしょう。殺さなければ、自分が生きていけない。いのちを喰らわなければ、決して手に入れることができない。じつはそれが十字架です。イエスは諸手を挙げて、十字架で私たちを受けとめてくださいます。しかしそれは私たちを抱きかかえるためではなく、私のすべてを喰らえと、そうでもしなければ、あなたがたは決して己の罪の中から救われないのだ、と。救いの重さというものを私たちは考えなければならないのです。
説教の最後に、「ひかりごけ」について補足しなければなりません。これはあくまでも戯曲ですが、じつは本当にあった事件をもとに創作されたものです。しかし実際の裁判記録や本人に話を聞いてではなく、うわさをもとに作りました。それが後々に悲劇を生むことになります。実際の事件では、船長は亡くなった乗組員の死体を食した、それは極度の心神耗弱状態の中にありやむを得ないものであったということで一年の実刑判決を受けました。しかし戯曲では、船長は明確な殺意をもって生きのびるために次々と仲間を殺したという設定になりました。この戯曲「ひかりごけ」が全国で上映され、有名になればなるほど、元船長は「連続殺人鬼」の風評から逃れられなくなったと言います。武田泰淳が戯曲「ひかりごけ」を世に出したのが昭和29年、そしてこの船長が世を去ったのがじつに平成元年のことです。
亡くなる前まで、彼を15年間にわたり取材したひとりの作家がおりました。彼によれば、元船長は死ぬまでこう言い続けたそうです。「人を食べるなどということをした私が懲役1年という軽い罪で済まされるはずがない・・・・自分は死刑でも足りない人間だ」。彼は半世紀のあいだ、その重い罪の意識を背負い続けて、それでも生き続けた、と。そこまでして、彼が生き続けた理由は何でしょうか。いや、理由を問うことさえ愚かかもしれない。すべての人間は、この世に生まれ出た以上、自分の中に与えられたいのちの炎を燃やし続けていく。そこに理由などない。自らその炎を消してしまう者もいる。しかし炎を消す権利は、もともと人間にはない。どんな犠牲を払っても生き続ける、それがいのちというものの耐え難い重さではないかと思います。
戯曲「ひかりごけ」の最後では、裁判所に集まったすべての者の首にひかりごけの輝きが浮かびます。同じ人間のいのちを犠牲にしながら生き続け、しかもそれに気づかない、すべての人々の姿です。それが人の変わらない罪の姿であるゆえに、イエスは私たちに言われたのではないでしょうか。わたしの肉を食べ、私の血を飲まなければ、あなたがたの中にいのちはありません。仲間の命を犠牲にしてそれに気づかない生き方には、やがて永遠の滅びが来ます。しかし私たちをその滅びから救い出すために、私を犠牲にせよと呼びかけられた方、いや、実際に十字架の上で犠牲になられた方、その方こそイエス・キリストです。このお方を喰らう以外に、私たちが救われる道はありません。救いとは人々が考えるようなスマートな道ではなく、むしろそのような激しいものなのです。しかしだからこそ、そこには確かな約束があるのです。軽い口約束ではなく、重く激しい言葉によって私たちに救いを語られたイエス。心に刻みつけて歩んでいきましょう。