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2012.9.9「たかが一ミナ、されど一ミナ」

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聖書箇所 ルカ19:11-27
11 人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからである。12 それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。13 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』14 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った。15 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。16 さて、最初の者が現れて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』18 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』19 主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』20 もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。21 あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。23 だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』25 すると彼らは、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています』と言った。26 彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。27 ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」


 子どもの頃、こんな童話を読みました。うろおぼえなので、細かいところはご容赦ください。アメリカの田舎に、プリン作りの名人と言われる女性がいました。彼女には5人の娘たちがいて、今日はその末っ子の誕生日です。名人は、朝からお祝いのプリン作りに励んでいました。火をおこし、ゆっくり、じっくりプリンを焼き上げる。ちなみに電子レンジとかない時代の話です。プリンの秘訣は、最後にふりかける、ひとつまみの塩。
 しかしここで名人はふと考えた。せっかくの誕生祝い。この最後の作業は、ぜひ姉たちの誰かにやってもらおう。そこで台所の窓から、庭にいた長女に声をかけました。「ねえ、しばらくしたら、プリンにひとつまみの塩を入れてくれないかしら」「だめよ、お母さん。今自転車の修理で手が真っ黒なの」。すると今度は台所の前を次女が通りかかる。「ねえ、プリン・・・」「だめ、これから宿題をやるの」。理由は適当ですが、確かこんな感じで四人の姉みんなに断られるお話しでした。
 しょうがない、自分でやるか。それまで、お部屋の掃除でもしましょ。名人、台所を離れました。しかし4人のお姉さんたち、断った後でこれが妹の誕生祝いに出すものだと気がつきました。あの子のお祝いなのに、断っちゃった。後味悪いなあ。そこで考え直し、言われたとおり塩を一つまみ入れてあげることにしました。一度断った手前、お母さんにわからないように、誰もいないタイミングを見計らって、4人めいめい、こっそりと。
 そしてその晩、家族ひとり一人の前においしそうなプリンが並びました。おめでとう、と言ってみんな一斉にプリンを口に運ぶ。次の瞬間、あまりのまずさにみなが目を白黒させる。「さいあく〜」と言ったかどうかは覚えていませんが。でもお母さんの心は思わず温かくなりました。この塩辛いプリンは、全員が妹思いの娘たちに育った証しとなったからです。

 なぜこの話を思い出したかと言いますと、今日の聖書箇所に表れている主人の気持ちは、このお母さんの思いに繋がるものではないかと思ったからです。私たちはこの主人が、しもべたちを競わせているように感じるかもしれません。実際、三人目のしもべは、そんな恐ろしい主人と考えたからこそ、せっかく預けられた一ミナをふろしきに包んでいました。しかし決してそうではないのです。この「主人」、イエス様と読み替えてもいいと思います、イエス様が求めているのは、この一ミナを何倍にするかという結果ではないのです。それがたとえ10倍であろうと、5倍であろうと、数字は問題ではない。神は外側の数字ではなくて、内側の心を見られます。自分はこの一ミナを何倍にできるかわからない、でも主人のことばに従おう。だって私はご主人様の喜ぶ顔が見たいんだ。これが私たちと神さまとの関係です。神の子どもとされた喜びの中で従うのであって、奴隷のような恐れの中で従ってはいません。もし奴隷根性ならば、その選ぶ道はリスクのない道です。つまりほめられもしないが、怒られもしない。利益も出せないが、損失もない。一ミナをふろしきに包んだしもべは、まさにその典型でした。現状を維持すれば、それでよいだろう。しかし予想に反して、何も失っていないにもかかわらず、このしもべは叱責されました。なぜでしょうか。その現状維持は、主人を愛していないことの証明だったからです。主人を喜ばせようとしてではなく、主人の叱責を受けないために、一ミナをふろしきに包んだからです。

 私たちは、自分が10倍、5倍の実を結ぶことを願います。しかし今日の箇所を注意して読んでみましょう。10人のしもべがそれぞれ一ミナを預けられました。しかし結果が紹介されているのは、その中の3人だけです。想像力を働かせてみると、残りの七人の中には、商売に失敗してすっからかんになったやつもいたんじゃないか、と思うのです。しかしあえてイエス様はこのたとえ話の中では触れない。触れる必要がなかったのです。悪い例は一つだけで十分でした。失敗を恐れて、何もしないという道を選んだひとりのしもべ。それに対してよい例はふたつ。主人の喜ぶ顔が見たくて、失敗を恐れなかったしもべたち。残りの七人の中に、たとえもうけに失敗した人がいたとしても、彼らもまた「よいしもべ」としてほめられたふたりのほうに含まれています。私たちがよいしもべと呼ばれるのは、失敗をしないからではなく、主人を愛してその願いに従うときです。今日の聖書箇所には、この主人が王になることを望まず、後から使いをやった国民たちというのも出て来ます。これも含めて、聖書は私たちがどの道を選んで生きていくのかと呼びかけます。喜ばせるべき主人として愛していくのか。私をさばく恐ろしい方として逃げるのか。私の人生と生活には入り込んでほしくない、不都合な存在として拒み続けるのか。あなたはどの道を選びますか。願わくは、この方を愛し、その喜ぶ顔が見たいという生き方でありますように。奴隷として仕えるのでも、敵として拒絶するのでもない、私を子どものように愛し、しもべとして認めてくださる方が預けてくださった一ミナを握りしめて、立ち上がってほしいと願うのです。

 さて、じつは今日のたとえ話とそっくりなお話しが、マタイの福音書にも出て来ます。そこではやはり主人がしもべたちに資金を預けて、これを増やすように命じます。しかし細かい所で、はっきりとした違いがあるんですね。ここでは10人のしもべが共通して一ミナを預けられますが、マタイではある者は一タラント、ある者は二タラント、またある者には五タラントとなっています。また今タラントという言葉が出ましたが、一タラントは今の物価に換算すると約4000万円位の大金です。それに対して一ミナはせいぜい60万円くらい、商売の元手としては決して十分とは言えない。この主人自ら、一ミナ預けられたことを「ほんの小さなこと」と呼んでいることからもそれがわかります。
 タラントとミナ。じつは、この違いには大きな意味があります。タラントは、英語でいうタレントの語源になっています。「芸能人」という意味ではなく、「才能」「賜物」という意味です。私たちひとり一人に神が与えてくださった才能はそれぞれ違います。そしてひとり一人に、お金では換えられないほどの特別な才能が与えられており、私たちはそれを神のために用いていく、それがタラントのたとえ話のテーマです。ではこのルカ福音書に出てくる、ひとり一人に等しく預けられた、そしてわずかな金額でしかない「一ミナ」は何を表しているのでしょうか。

 私は、この「一ミナ」は、私たち救われた者、あるいは救われる者に与えられる「みことば」ではないかと考えています。もちろん救いに導かれたみことばはそれぞれ異なるでしょう。しかしみことばは、それが何であろうと、私たちを救いに導いた神の力として、本質的に同じものです。そしてそれは、この世の人々から見たら、取るに足りない一つの言葉でしかない。しかしその取るに足りないことばを私たちが心に受け入れたときに、人生は死から命へと変わりました。そして今もみことばは私たちの中に働き続け、私たちの心の中で成長し続けています。キリストは別の箇所でこう言われました。神の国はからし種のようなものである、地上の種の中で一番小さいが、地に蒔かれると生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになる、と。
 私たちに与えられた、それぞれのみことばを人々に伝えていくとき、それは五倍、十倍、あるいはそれ以上になります。私の人生を変えた言葉が、他の人々の人生をも変えていくのです。しかし私たちの主人である方が喜ばれるのは、五倍よりも十倍、十倍よりも百倍という数字ではありません。たとえそれがどんなに小さな倍数であっても、このみことばの種を自分の中に隠したままではなく、外へと広げていくことそのものを喜ばれるのです。なぜならば私たちは奴隷根性ではなく、喜びをもってこれを伝えることができるからです。聖書は失敗しないためのマニュアルではありません。クリスチャンであっても失敗します。しかしクリスチャンは成功、失敗という色眼鏡を通して人生を評価する愚かさから解放されています。神さまは成功か、失敗かということを私たちの評価基準としては問われないお方であるからです。今日の招きのみことばにはこうありました。種を植え、水を注いだのは人間、しかし成長させてくださるのは神です、と。仮にこのしもべがその1ミナを使ってそれを失ってしまったとしても、主人は彼にその責任は問いません。主人は結果すべてを引き受ける覚悟をした上で、10人のしもべたちにそれぞれ1ミナを預けたのですから。
 導入に紹介したプリンの童話でいえば、もし四人の娘たちが何もしなかったら、その晩は、甘いプリンが食べられたでしょう。しかし口には甘くとも、心には苦かったはずです。何もしなかったゆえに甘いからです。しかし何もしないというのは、私があなたのすべての責任を背負おう、という主人の隠れた思いを無駄にする行為です。いいえ、無駄にするというよりは愚弄する行為と言えるでしょう。私たちそれぞれの心の中にも、福音のことばが預けられています。最後に出てくる、「私が王になるのを望まなかった者たちは殺してしまえ」という言葉は、あまりにも残酷に聞こえます。しかしイエス・キリストが救い主であることを知らないままに歩み続ける人々は、最後には罪のさばき、永遠の滅びが待っていることを聖書はあらゆる箇所で警告しています。だからこそ、忠実なしもべが必要とされているのです。私たちは知らせなければなりません。人々に知らせなければなりません。そのために私たちは、しもべとして先に救われたのです。私たちにゆだねられた一ミナ、たかが一ミナ、されど一ミナ、救いのみことばを人々に伝えていきましょう。
posted by 近 at 14:58 | Comment(0) | 2012年のメッセージ
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