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2012.9.16「老いを恐れず、老いを楽しむ」

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聖書箇所 テトスへの手紙2章1-5節
1 しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。2 老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。3 同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。4 そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、5 慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。

 教会には全国各地のバイブルキャンプ場から案内が送られてきます。柏崎の聖ヶ丘キャンプなどが有名ですが、そこでは参加者が自然を楽しみながらみことばを聞き、楽しいプログラムを過ごします。小学生キャンプを皮切りに、中高生、大学、ファミリーキャンプといった案内を眺めながら、ある時ふと思いました。なぜここにシニアキャンプ、つまり高齢者向けキャンプがないんだろう、と。疑問が昂じて、キャンプ委員を担当する先生に、高齢者を対象にしたキャンプを提案したことがあります。するとこう言われました。キャンプを企画しても、お年寄りは外に出たがらないでしょう。
 しかし実際は逆じゃないかと思うのです。高齢者の行動力をバカにしてはなりません。以前、山形の教会へ行った帰り道、関川にある「道の駅」へ立ち寄りました。そこには近くにある温泉から引いている足湯があります。運転で疲れていたのでちょっとだけ、と思ったのですが、甘かった。平日なのに観光バスが何台も並び、何十人もの人々が足湯のスペースを取り囲んでいる。全員、お年寄りです。高齢者が外に出たがらないなんて、とんでもない。無言でぬるま湯に浸かっているお年寄りを見ながら、あの足湯スペースの真ん中で聖書のお話しができたらいいのになあと思わずにはいられませんでした。
 これは一つの例ですが、たしかに日本の教会は高齢者が主体的に参加できるプログラムが少なすぎると思います。そしてその原因は、私たちの考え方や態度にあります。「来てくださるだけで感謝。どうぞゆっくりすわっていてください。いやいや、祈っていただくだけで十分。何もしなくて結構です」。首都圏のある教会で、子供たちが教会学校に50人も集まっている教会があります。多くのキリスト教雑誌が取材し、その方法論を学べとかき立てました。一方で同じ町に歴史の古い教会があり、信徒が50人、昔ながらの礼拝を守り続けています。みんなお年寄りばかりで、70歳でも若手と呼ばれます。同じ50人が集まっているのに、どこも取材に来ないし、誰も学びに来ない。この扱いの違いは何でしょうか。またある教会では、頻繁に次世代伝道という言葉を口にします。まるで先の短い今の世代に伝道しても仕方がないと言っているように聞こえるのは気のせいでしょうか。
 もし高齢者が生き生きと参加できるプログラムが教会にあれば、その地域を福音へ巻き込んでいくことができるでしょう。そしてそれが、初代教会の姿であったことを聖書は教えています。旧約聖書のレビ記19章32節で、神はこう命じておられます。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である」。老人を敬うことが、主を恐れることよりも先んじて語られているのです。初代教会は、そのユダヤ的伝統を捨てることなく、教会でも老人に敬意を払いました。今日の聖書箇所、新約聖書のテトスの手紙はクレテ島の教会に赴任するテトスにあてて書かれたものですが、そこでもテトスがみことばを教えるべきトップバッターとして、まず「老人たち」が挙げられています。1節、2節をもう一度お読みします。「しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように」。
 おそらくテトスはまだ若い牧会者であったと想像されます。自分と年齢の近い青年たちを教えるほうが楽だったし、得意であったでしょう。しかしパウロは語りやすい世代よりも、まず老人を、そして年をとった婦人たちを健全に教えることを命じます。この世代が教会のリーダーだったからではありません。もしそうだったら、わざわざ「大酒のとりこにならず」などと念を押す必要はなかったでしょう。しかしだからこそ、彼らはまずみことばによって変えられなければならなかった。それは、神を恐れるように老人たちを尊敬せよというみことばが、異教社会であるクレテにおいても働くことを示すためでした。みことばがユダヤの家庭だけでなく、教会だけでなく、クレテの社会においても人々を変えていく神の力であることを示すこと、すなわち「神のことばがそしられない」ためでありました。


 多くのクリスチャンが、若い世代が多くいる教会をうらやましがり、お年寄りが多い自分の教会を見てはため息をつきます。もういい年をした伝道者が若者のファッションに身を包んで説教している姿は目に痛いものがあります。「若者の心をとらえる」説教者が時代の寵児としてもてはやされますが、彼らの語ることばは若者の心しかとらえることができません。子どもや若者が教会に来れば未来がある。もしそう考えているとすれば、それは目に見えるものに安心感を抱いているだけだと気づくべきです。ある若い牧師が、隣町の教会に呼ばれて礼拝で説教しました。礼拝後、役員さんにおせじ半分でこう言いました。「いいですね、こちらの教会は若い人が多くて。うちの教会はお年寄りばかりで、話が合わないことがよくあります」。すると役員がこう答えたそうです。「先生、安心してください。先生もすぐに年をとりますから」。
 教会はその置かれた社会の縮図でもあります。日本がとっくに高齢化社会に突入しているのに、なぜうちの教会は高齢者ばかりなのか、と嘆くのはあまりにも世を知らなすぎる愚かなつぶやきでしかありません。そして教会は、主が私たちひとり一人にゆだねてくださった家族です。「うちは年寄りばかりだ」と嘆く前に、その「年寄り」を神は喜んでくださり、その力を通して世を勝ち取ろうとしておられるのだと気づくべきです。パウロがテトスに書き送った言葉にもう一度目を留めてみましょう。テトスよ、健全な教えにふさわしいことを話せ。まず真っ先に、老人たちに。そしてその次に、年をとった婦人たちに。テトスがその言葉に基づいて牧会を進めるときに何が起きたでしょうか。それは、みことばを受け取った老人たち自身が、若い世代を教えていく教会が生まれました。牧会者がひとり一人の家庭を見回り、信徒はお互いに関わらないといういびつな教会ではありません。テトスはみことばを語る。すると教会はテトスではなくみことばを中心に回っていくのです。牧師がいなければ何もできないという教会ではなく、みことばの健全な適用が、まず高齢者の世代を変え、そしてそこからさらに教会全体を変えていきました。テトスをとりまく教会の高齢者たちは、決してものわかりのいい、清廉潔白な人々ばかりではありませんでした。しかしみことばがその健全さにふさわしく語られるとき、彼らは必ず変わります。高齢の婦人たちの中に言葉と生活の一致が生まれ、そして彼女たちの変化は、みことばに力があることを若い婦人たちにも納得させます。神のことばが、神のことばだけが、その奇跡を生み出すのです。

 社会学においては、65歳以上人口が全人口の21%を越えると、超高齢社会と呼ばれます。日本の65歳以上人口は、すでに23%に達しています。今から約40年後の2055年には高齢化率40%、すなわち2.5人にひとりが65歳以上になると言われます。急速に老いていく日本のスピードはもはや止めることはできません。若者を獲得しなければ教会の未来はないなどと論じる一部牧師の主張は、社会をまるで知らない人の戯れ言でしかないのです。石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができる神は、その時代時代に救われるべき人を起こしてくださるでしょう。そして今私たちがすべきは、子どもや若者が教会に来やすくなるように腐心することではありません。教会の中でも絶対多数となる高齢者が生き生きと信仰を喜ぶことができるようにすることです。今、子供たちが教会でイエス様を楽しんでいるのと同じくらいに、高齢者が教会っていいなと楽しめる、そういう教会形成が求められています。そのために私たちはみことばから知恵を必要としています。
 私たちの社会は、高齢者であることをプラスよりもマイナスとして受けとめてきました。教会こそがそのイメージを逆転させるべきなのに、私たち自身は世の人々よりもさらに高齢であることをマイナスのように考えてきました。高齢者は心がかたくなだから、心が柔らかい子どものうちに福音を伝えるべきだと平気で説教する牧師さえいるのです。そして彼らは、そのような考えがみことばの力を自らそしっているのだということに気づかないのです。どのような世代も、神の前には平等に救いを必要としている者たちです。そしてどのような世代にとっても、みことばは救いを得させる神の力です。みことばが世代によって受け入れやすい、受け入れにくいという言葉は、神の力を人の感覚に置き換えてしまっている罪に他なりません。人が救われるという希望は、決して目に見えるものではなく、目に見えないものなのだと気づかなければならないのです。そこには忍耐が必要です。だからこそパウロは、信仰と希望と愛ではなく、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるようにと、老人たちに求めました。老いるとは、気力も体力の衰えと無縁ではありません。しかし老いるとは、それまで自分を支えていた柱を一本一本取り外し、一日一日神のことばをかみしめて糧にしていくことでもあります。じつにそれこそが謹厳と呼ばれている生き方です。そして教会の中で高齢者が下の世代に与えることのできる最上の遺産でもあります。老いを恐れず、むしろ老いを感謝することができる者たちでありたいと願います。
posted by 近 at 15:35 | Comment(0) | 2012年のメッセージ
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