聖書箇所 イザヤ書48章10節
見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。
わたしは悩みの炉であなたを試みた。
1.スピードを求める現代社会。時間の節約を最優先する危険性
今年は記録的な猛暑と言われましたが、そんなとき、ある方から自家製の梅酒をいただきました。「就寝前にちょっと飲むと、気持ちよく眠れますよ」と言われて、確かに寝付きがよくなりました。水で薄めてちびちび飲み続けたのですが、やがて愛しの梅酒くんとも別れを告げなければならなくなりました。ああ、そうか。自分で作ればいいんだとインターネットで調べましたが、三ヶ月であっさりとした味わい、一年でコクが出てくるといった説明文を読んでいるうちに、時間がかかるのはやだなあと思ってしまいます。スーパーでできあがりの梅酒を買ってくればいいわけですが、やはり自家製にはこだわりたい。でも時間がかかるのはちょっと・・・・すると、やはりインターネットなのですが、そんな私にぴったりの商品が見つかりました。その名も「超音波式果実酒即製器」。梅と焼酎を入れてスイッチを入れると、なんと次の日には梅酒が完成という、ドラえもんもびっくりの夢の機械です。何でも一秒間に四万回という超音波振動が、一日で数ヶ月分の熟成効果を与えるそうです。しかしそうとわかると、今度はそんなに早くできてもなあ・・・・と思ってしまうあたり、人間というのは勝手な生き物だなあと思います。
私たちの生活はスピードを求めています。以前、こんな話を聞きました。インドネシアで宣教師として働いている先生が、日本の教会でメッセージを頼まれて帰ってきました。空港へ出迎えにきた牧師が言いました。「先生、JRではなくて地下鉄で行きましょう。うまくいけば、5分の短縮になります」。その時に思ったのは、なぜ5分短縮しなければならないのか、と素朴に疑問に思ったと言います。そして疑問は不安に変わった。翌日、その不安は的中した。メッセージの前に、牧師が宣教師にこう言いました。「先生、メッセージは30分程度で、長くても40分以内にお願いします」。5分、10分。永遠のいのちを受け取っているにもかかわらず、なぜそんな短い時間にこだわるのか、理解できなかったとその宣教師は述懐していますが、私たちは教会であってもいつのまにか時間に追い立てられている、いや、もしかしたら教会のほうが世の人々よりもせわしなく動いているということがあるかもしれません。そして時間的な回り道ならばまだいいでしょう。もっと悲しむべきは、生活の中で起こる様々な出来事を自分にプラスか、それともマイナスかで評価して、マイナスと思われるものを切り捨てていくことです。
2.「なぜ」という問いかけは、時として回り道を切り捨てる
地震と津波で壊滅的な被害を受けた気仙沼市で、ひとりの町医者として人々に寄り添い続ける、あるクリスチャンがおられます。その方が、インタビューでこんなことを書いておられました。(山浦玄嗣「被災地・ケセンから見た3.11」35-37頁、『信徒の友』別巻「その時、教会は」、日本キリスト教団出版局、2012年)
震災後、テレビ、新聞、雑誌からコメントを求められました。彼らは皆判で押したように、「東北の人は非常に我慢強く正直で善良である。こういう人たちがなぜ、このような目に遭わなくてはならないのか。神さまはなぜこのような酷い目に遭わせるのか。信仰者として今回の出来事をどう考えるか」という質問を投げかけてきました。私は髪の毛が逆立つくらい腹が立ちました。私はそんなことを一度も考えたことがありません。あの惨害の最中に何千人という気仙の人間を診ました。連れ合い、親、子どもを亡くした人たちの話を聞いて一緒に泣いてきました。でも、「なして、おらどァこんたな目に遭わねァばならねァんだべ」という恨み言を聞いたことはただの一度もありません。・・・(中略)・・・そういう人たちに向かって、こんな意地の悪い質問をするのは「お前たちは神さま、仏さまに見捨てられたのだ」と言うのと同じで、人の心を絶望で腐らせる猛毒です。この医師は、終わりにこう書いています。
我々が神さまに対して取るべき態度はたったひとつ、「神さま、あなたは私をお創りになりました。何のためにお創りになったんですか?私はどういう道具なのでしょうか。どうぞ、教えてください」、これしかないのではないでしょうか。我々が神さまの道具なのであって、神さまは我々の主なのです。そこを履き違えてはいけません。時間だけでなく、様々な出来事もまた、人生に不必要なこととして切り捨てていこうとする、そんな人間の罪を彼は指摘しています。そして今日の聖書のみことばは、まさに私たちが神に用いられる器なのだということをたった一言で伝えています。もう一度、みなで読んでみましょう。
見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。
わたしは悩みの炉であなたを試みた。
3.人生の回り道は、私たちが神の目に尊いものである証し
ここには、私たちの人生における試練が、銀の精錬と重ね合わせられています。ここで精錬について説明が必要でしょう。金や銀のような貴金属は、精錬と呼ばれる作業を必要とします。鉱山から掘り出した金や銀の鉱石には、たくさんの小さな不純物が詰まっているからです。しかしおもしろいのはここからです。精錬作業を一言で言うと、もっと大きな不純物を炉に投げ込むのです。具体的には、鉛や水銀といった有毒な不純物を、金銀と結合させます。そしてその後で炉を高温で熱すると、鉛や水銀だけが蒸発し、純粋な金銀だけが残るという仕組みになっているわけです。つまり、無数の小さな不純物を取り除くために、あえてもっとひどい不純物を炉に投げ込むのです。それは一見、とんでもない回り道に見えることでしょう。純化するのではなく、より不純なものにするのですから。しかしその回り道が、金銀を精錬するためにはどうしても必要なことなのです。
私たちの人生には悩みや苦しみが起こります。神を信じていない時にも悩みますが、神を信じても悩みは起こります。神が生きているのなら、なんでこんなことが起きるんだろう、神を信じているのになんでこんなに悩まなければならないんだろう。そういう問いをもつこともあるでしょう。しかし「どうして」と問うことよりも、その悩みの炉を通して私たちは純化されるのだと忘れてはならない。小さな無数の不純物に覆われた金銀を純化するために、これはガマンできないと思われるような水銀や鉛のような有害なものと結合させられること、それが神の言われる「悩みの炉」です。神は、私たちを金や銀よりも尊いものとして見ておられる。そして金銀でさえ鉛や水銀で精錬されるとすれば、私たちはもっと有害に見えるようなものを人生に投げ込まれることがあるでしょう。しかしそれが私たちを純化するために必要なことなのです。目の前の事柄に一喜一憂することなく、ただ私は神の器であり、神のしもべにしか過ぎません、主よ、しもべにお語りくださいとみことばだけを待ち望む本物の信仰へと導くために。
4.回り道でこそ見えるものがある。それは自分自身、そして主イエス
私たちのうち一人一人が、それぞれ問題を抱えていることでしょう。問題のない人生なんてあり得ません。それは信仰を持っていても、持っていなくても同じです。しかし神の子どもであるクリスチャンが求められていることは、問題の中で「どうやってここから抜け出すのか」と考えることではありません。むしろ「何をここから見つけだすのか」と考えることです。私という人間の中に含まれている不純物、それを取り除くために、神が私を悩みの炉の中に投げ入れたのならば、自分の内側にいる本当の自分をしっかりと見つめることです。何を悔い改めなければならないのか。何を神は私に求めているのか。
幾度も幾度もかみしめる中で、私たちは、周りが問題なのではなく、自分に問題があることに気づくのです。もちろん気づいたからといってそれをすぐに変えることができるくらいであれば、誰も悩みはしません。しかし私たちは、自分ではどうすることもできないことをすべて神にゆだねることができる。こんな私のために、こんな私の身代わりとして十字架に着いてくださった方がおられる。そのお方こそイエス様だ。私が苦しい時、不安な時、悲しみの時、いつも私と共に苦しみ、悩み、悲しんでくださる方。しかしイエスはこうも言ってくださる。「私があなたの受けるべき罪のさばきをすべて引き受けた。だからあなたは何も恐れず、今もう一度立ち上がりなさい」と。
この方にすべてをゆだねることができる生き方こそが、本当の幸いな人生です。