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2012.10.21「常識を飛び越えろ」

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聖書箇所 マルコの福音書2章1-12節
 1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。9 中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。
 あるクリスチャンの先輩が初めて教会に行ったときの思い出を話してくれたことがありました。「キリスト教会って言うから、ステンドグラスやパイプオルガンを連想していたんだが、行ったら普通の家に畳敷きで、そこでイエス・キリストの話を聞かされたんだな」と。もしかしたらみなさんも同様の思いを持っているかもしれません。こんなざぶとんで床に座らされて、まわりも何か引っ越しの途中みたいで、教会らしくない。すべては午後のバザーのためです。いや、バザーを通して地域のみなさんに私たちの元気の源であるイエス様を知っていただくためです。私自身もこういう形で礼拝をもつのはめったにないのでいささか面食らっておりますが、しかし一方でこういう形での礼拝に、憧れをもっていた部分もあります。というのは、普段は美しい講壇があり、そして椅子を並べて礼拝を守っていますが、それはヨーロッパ風の礼拝です。少なくともイエス様の時代には、講壇もなかったし椅子もありませんでした。今日の聖書箇所を読んでみてください。人々は家に入りきれず、足の踏み場もなかったようです。大きな講壇や椅子を並べるスペースもなかったんですね。日本には車座という言葉がありますが、まさにここにはそんな情景が描かれているのでしょう。

 アフリカのある国から留学しているひとりの青年がいました。ある朝、彼の日本人の友だちが、電車の中で本を読んでいる彼を見つけました。しかし友人はぷっと笑ってしまった。というのは、アフリカのその青年は、本を逆さまにして読んでいたのです。学校に着いてから、その友人は彼に声をかけました。「さっき電車の中で本を読んでたけど、さかさまだったよ。読むふりをして、本当は寝てたんだろ」。すると彼は不思議そうにこう答えた。「ああ、さかさまだったよ。でも僕たちからみれば、逆さまだと本を読めないと考える君たちの方が不思議だよ」。そして彼は自分の国の話をしてくれた。度重なる戦争で学校は壊され、机もなく、ひとり一人に配られる教科書もない。だから彼らはこうやって車座になって、先生が一冊の教科書を地べたに置き、生徒たちがそれぞれ教科書を覗き込むかたちで授業を続けて来た。だから本を逆さまに読むなんて当たり前だったんだ、と。その話を聞いた日本人学生は、赤面して彼に謝ったそうです。
 車座になって人々に神の愛を教えたイエス様、車座になって教科書を逆さまに読んできた子供たち、じつはこの両者には、車座以外にもうひとつ共通点があります。それは、常識を捨てるということです。逆さまに本を読むなんて、あり得ない。日本人だったら、かの学生だけでなく、みんながそう思うかもしれません。屋根をぶち抜いて、イエス様に直してもらうなんて、非常識だ。当時の人々もそう考えたかもしれません。さらに、安息日に人を直すのは、おきてに反している。安息日は、たとえどんな仕事であっても、してはならないのだ。そんな常識にとらわれているユダヤの偉い人たちもいました。

 私たちはどうでしょうか。今日はバザーだから、特別に教会に来てあげたのだ。でもうちの宗教は先祖代々、仏教。キリスト教なんていう外国から来た宗教は、信じることなどあり得ない。しかし仏教も元々は外国から来た宗教でした。さらに言えば、八百万の神が描かれている「古事記」ができたのは、旧約聖書の「創世記」が書かれてから2000年も後です。そして古事記の中の色々な物語に、旧約聖書の影響が見られることは多くの学者が認めています。つまり、「外国の宗教だから、日本人の感性には合わない」という常識は作られたものだということです。常識を捨てなければ、本物に出会うことはできません。もしこの中風の人の四人の友達が、ぎっしり満員の家を見て、「常識から考えて、これは無理だよね」と結論づけていたら、この人は救われなかったでしょう。屋根をべりべりと剥がして布団ごとつり下げるなんて、明らかに非常識です。常識を越えています。しかし本当に大切なもの、本当に必要なものは常識の向こう側にあるのです。うちは仏教だからイエスさんは結婚式とクリスマスだけで十分、そんな日本人の作られた常識を捨てて、この中風の人のように、本当の救いを体験してみませんか。

 私たちの教会では、毎年この時期にバザーを行っています。8年前の10/23にあの中越地震が起きたとき、その翌日にうちではバザーをやっていました。あの頃に比べると教会員もずいぶんバザーに慣れてきて、この壁の向こう側では講壇や聖卓や大型椅子がまさに常識を越えた出で立ちで積み重ねられているのですが、もし同じように前日に地震がきたらどうなっちゃうんだろうねと昨日妻と話したことを思い出しました。
 そこまでしてなぜ毎年バザーをやるのか。それは、何としてでも教会に一度来ていただきたいからです。一度来た人には、次の年にもまた来てもらいたい。バザーをきっかけにして、礼拝へと、そして礼拝から、永遠のいのちに至る信仰の決心へと進んでいただきたい、ただその一心です。実際に、うちの教会にはバザーをきっかけにして幼い頃の教会に通った記憶が呼び覚まされ、信仰決心に至った姉妹もおられます。この中風の人は、すべての人間の姿です。私はとりあえず健康だから関係ない、ではありません。私たちは、あらゆる人間が罪という病に冒されている。それは生まれたときすでに背負っている病であり、あるひとつの方法以外には、決していやされることはない。そのたったひとつの方法とは、イエス・キリストを救い主として信じることです。そうすれば罪のさばきから解放され、私たちは本当の意味で立ち上がることができます。
 しかし聞いたことのない方を信じることなどできません。出会ったことのない方を信頼することなどできません。だからこそ、私たちはどんな方法であっても、たとえバザーという手段であっても、人々に教会に来ていただきたいのです。そして私たちからキリストの香りをかいでほしい。キリストを信じた者がどれほど喜びと希望にあふれて歩むことができるのかを知ってほしい。それができるのは人間ではなく、ただ神だけです。「子よ、あなたの罪は赦された」と優しく呼びかけてくださるイエス・キリストだけです。どうか、この方を信じることができますように。そして今日バザーに来られる人々に対して、私たちクリスチャンがことばや、対応する姿勢を通してキリストを証ししていくことができますように。
posted by 近 at 07:56 | Comment(0) | 2012年のメッセージ
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