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2012.11.4「みことばをことごとく」

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聖書箇所 申命記1章1-8節
 1 これは、モーセがヨルダンの向こうの地、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフの前にあるアラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。2 ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。3 第四十年の第十一月の一日にモーセは、【主】がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げた。4 モーセが、ヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホン、およびアシュタロテに住んでいたバシャンの王オグをエデレイで打ち破って後のことである。
 5 ヨルダンの向こうの地、モアブの地で、モーセは、このみおしえを説明し始めて言った。6 私たちの神、【主】は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。7 向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。8 見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、【主】があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」
 昔、教会学校でやったクイズです。聖書の中に、読めば必ず長生きができる本があります。それは何でしょうか。答えはこの「申命記」です。申命記の最初に人、すなわちにんべんをつけてみてください。「命を伸ばす」となります。これはあくまでもクイズですが、確かに申命記は長生きの書と言えなくもありません。というのは、というのは、申命記の大きなテーマは、神のことばに従うことによる祝福だからです。そして『申命記』を敬遠するクリスチャンたちに思い出してほしい、ひとつの事実があります。それは、この『申命記』はイエス様の愛読書でした。新約聖書でイエス様が引用されているみことばは、圧倒的に申命記からのものです。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつ一つのことばで生きる」。イエス様が悪魔に真っ先に言われたこのことばも、申命記からです。申命記は、まさにその神のことばをひとつひとつ味わっていく人々の命を伸ばしてくれる「長生きの書」であると言えるでしょう。
 では、クイズではなく真剣に、『申命記』とはどういう意味でしょうか。申命記の「申」という漢字には「重ねて、繰り返して」という意味があります。重ねて命じられた記録、繰り返される命令、それが『申命記』という書名の意味です。申命記の内容は、レビ記や民数記といったその前の書と重なるところが少なくありません。なぜあえて同じことを繰り返し語らなければならなかったのか。それは、『申命記』はそれらを聞いていない、新しい世代に重ねて語られたからです。これには歴史的説明が必要でしょう。ここでイスラエル民族の歩みをまとめてみたいと思います。

 今から約3400年前、イスラエル民族はエジプトで奴隷として苦しんでいました。神は彼らをあわれみ、ひとりの指導者を立てて彼らを解放し、約束の地であるカナンへと導こうとされました。その指導者こそ、この『申命記』の語り手であるモーセその人です。あの有名な、紅海が二つに分かれてそこを進むという奇跡を体験しながら、彼ら数十万人のイスラエル民族はエジプトからカナンへと進んでいきました。エジプトからカナンへはどれだけの距離でしょうか。じつは直線距離で160キロくらいしかありません。彼らは砂漠を大きく迂回して進みましたが、それでも徒歩で三週間もあれば到達するはずでした。2節には、「ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには11日かかる」とありますが、これは約全行程の半分です。しかし隣の3節を見ると、こう書いてあるのです。「第40年の第11月の1日にモーセは・・・・」。
 この40年は、エジプトを脱出してから40年です。一ヶ月もかからない距離を、彼らは40年かかったのです。なぜでしょうか。40年前、そのカデシュ・バルネアでイスラエル人たちは神に逆らい、罪を犯しました。そのさばきとして、その世代が生きている間は、決して約束の地に入れなくなってしまったのです。モーセもまた、約束の地に入ることはできないと神は言われました。40年の間に昔を知る者たちは世を去り、新しい世代がイスラエルに育っていきました。彼らは神が約束されたとおり、モーセの死と共にカナンへと向かいます。彼らが40年前と同じ過ちを犯すことがないように、みことばが余すところなく語られる必要がありました。それが、この『申命記』という記録の意味なのです。

 さて、この歴史を踏まえて今日の聖書箇所を読み返してみると、みなさんは不思議に思われるはずです。モーセは聴衆に向かって、「あなたがたはこうした」と40年前の出来事を語ります。しかし聴衆の世代は、そのことを知らない世代なのです。モーセが語っている出来事は、彼らの亡くなった親たちのやったことです。しかしモーセは、まるで彼らがその中心にいたかのように語ります。
 ・・・これが、歴史の中に生きるということです。過去の時代を指して、私はその時にいなかった、親や祖父のなしたことだ、私には関係ない。そのように言える者は誰もいないということです。これは、とくに日本人にとって心に刻まなければならないことでしょう。ナショナリズムの高まりの中で、中国、韓国に対する戦争犯罪は過去の出来事として受けとめられています。若い世代は、私には関係ないと言います。すでに賠償責任は果たしたはずだ、と。国として宣言した謝罪文についても、あれは無効だ、と言う者もいる。しかし忘れてほしくないのは、たとえ何世代経ったとしても、私たちは罪から目をそむけることはできないのです。戦争犯罪だけでなく、原罪という人間が抱えている生まれながらの罪もそうです。アダムとエバの罪がどうして私に関係あるのか。しかしすべての人間はこの二人から生まれた者であり、決してそこから逃れることはできません。逃げ出すのではなく見つめること。開き直るのではなく悔い改めること。その先にこそ、罪の赦しと永遠のいのちがあります。


 モーセは、40年前の罪を知らない新しい世代、しかし彼らもまた同じ罪人なのだという事実をぼかしません。そして40年前と同じ罪を繰り返さないために、何をしなければならないのか。その答えが3節にあります。「モーセは、主がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼に告げた」。

 みことばをことごとく、それは曖昧さを残さず、ということです。今日の午後、教会の有志が区民音楽祭に出演します。私も練習に参加しましたが、メゾソプラノを歌い始めていたのにいつのまにかソプラノに変わってしまうということばかりでした。なぜそうなるのかというと、隣の人が間違えて歌っているからです。自分では楽譜を見てもどの音を出せばよいかわからず、隣の人が出している音に合わせていると、その隣の人が間違えたらお手上げです。もしこれが賛美ではなく聖書のことばに対しての態度だったらどうでしょうか。つまり、教会で牧師の説教は聞く、ときどき特別集会に参加したり、ライフラインのような番組を視たりはする。しかし自分の日常生活で聖書を開き、読むことはない。だとしたら、それは聖書を知っているのではなく、他人の聖書解釈に合わせているだけです。牧師が説教を間違えて語ったらどうしますか。集会の講師が異端すれすれのグレーゾーンの考えの持ち主だったらどうしますか。間違えたことを鵜呑みにして、自分が間違えていることに気づかないことさえ起こり得ます。エバが蛇に誘惑されたときのことを知っていただきたいと思います。あるいは悪魔がイエス様を誘惑したときのことも併せて考えてみてください。悪魔は、エバに対してもイエス様に対しても、あろうことか聖書のことばを使って誘惑してきたのです。「神はこう言ったんですよね?」「聖書にはこう書いてあるんですよね?」イエス様は、悪魔の誤った聖書解釈に対して、過ちをはっきりと指摘するみことばで退けました。音楽にたとえるならば、どの音を出すべきか、はっきりと知っていたのです。しかしエバはそうではありませんでした。曖昧で、部分的なことしか知らなかったゆえに、蛇、つまり悪魔に突っ込まれると何も言えなくなってしまったのです。なぜ彼女はそうだったのか。彼女の知っている神のことばは、アダムに聞いたことで止まっていたがゆえに、確信をもって蛇に答えられなかったのです。

 だからこそモーセは、イスラエルの新世代にみことばをことごとく語りました。曖昧さを残さないために、確信をもって罪のあらゆる芽を抜き取ることができるために。やがてすぐにモーセもいなくなる。次の指導者ヨシュアは確かに優れていた。しかし40年前のイスラエル合唱団は、モーセと同じ音を出すことしか知らなかった。自分でどの音を出すべきかわからないまま、神のみことばを曖昧に受けとめていた、それが失敗の原因でした。もしヨシュアに対しても民が同じ態度で臨むならば、同じ罪が繰り返されていく。だからこそモーセは、主がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げました。

 人に合わせることと、ハーモニーを作り出すことは異なります。自分がどの音を出せばよいかわからないで、ハーモニーを作り出すことはできません。なんで当日になって言うんですかと言われそうですが、私は今日の賛美ではなく、みことばに対しての姿勢を言っています。むしろひとり一人が自分の音を出しているT−ブリーズに大いに期待し、応援しています。賛美においてひとり一人が自分の音を知っているように、みことばに対しても人任せではなく、自分から聖書を開き、誤ったものを見抜くことのできる者となりましょう。それが教会を教会として建て上げていくために必ず必要なことです。「第40年の第11月の1日」、まさに今年40周年を迎えた私たちの教会にとって、この11月第1主日にこのみことばを心に刻みつけることは意味があることです。「みことばをことごとく」聞き分け、語り告げ、味わう者として歩んでいきましょう。
posted by 近 at 15:52 | Comment(0) | 2012年のメッセージ
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