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2012.11.11「みことばと交わりの出会うところ」

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聖書箇所 申命記1章9-18節
 9 私はあの時、あなたがたにこう言った。「私だけではあなたがたの重荷を負うことはできない。 10 あなたがたの神、【主】が、あなたがたをふやされたので、見よ、あなたがたは、きょう、空の星のように多い。 11 ──どうかあなたがたの父祖の神、【主】が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように── 12 私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。 13 あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。彼らを、あなたがたのかしらとして立てよう。」 14 すると、あなたがたは私に答えて、「あなたが、しようと言われることは良い」と言った。 15 そこで私は、あなたがたの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らをあなたがたの上に置き、かしらとした。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、また、あなたがたの部族のつかさである。 16 またそのとき、私はあなたがたのさばきつかさたちに命じて言った。「あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。 17 さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものである。あなたがたにとってむずかしすぎる事は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」 18 私はまた、そのとき、あなたがたのなすべきすべてのことを命じた。
 人生の終わりが目の前に近づいてきたとき、人はまず真っ先に何を思い浮かべるでしょうか。地上に残していく愛する家族の顔。生涯かけて、自分が積み上げてきた幾多の業績。あるいは様々な所へ旅をして出会った光景。人によって様々でしょう。しかし人生の最後に真っ先に思い浮かべるものが、自分でも、ましてや自分の業績でもなく、自分を助けてくれた仲間たちであるような人生は、まことに幸せなものと言えるでしょう。人はこの世に一人で存在しているのではない。そして人は誰にも頼らず生きている強い存在でもない。日本には「おかげさま」という言葉があります。聖書から来た言葉ではありませんが、極めて聖書的な言葉です。すべてを良きにはかりたもう神が、最もふさわしいときに、最もふさわしい方法で、人々の助けを得させてくださったということだからです。最も必要なパートナー、あるいはサポーターを与えてくださった。今日のモーセの言葉からは、「御陰様で」という言葉が飛び出してきても不思議ではない、温かな気配が感じられます。
 モーセは、過去のことを知らない、新しい世代の前に立ち、この40年を振り返ります。自らの死も視野に入れた彼が真っ先に口にした思い出は何だったでしょうか。あなたがたの父が不従順の罪を犯したゆえに、この40年の遅れがあるのだという叱責だったでしょうか。いいえ、その前に彼が語ったことは、「私が一番苦しかったとき、私の重荷を背負ってくれたのはほかでもない、あなたがたの父なのだ」ということでした。私の心からの仲間、同胞(はらから)よ、あなたがたは、私の苦しみを分かち合い、重荷を肩代わりしてくれた者たちの子なのだ、という感謝が今日の聖書箇所からは響いてきます。

 ところで、申命記のこの箇所は、出エジプト記18章に書かれてある出来事を指しています。しかしそこを開くのではなく、モーセの半生も含めて、自分自身の言葉で紹介したいと思います。
 モーセが生まれたとき、エジプト人に殺されることを恐れた両親は、彼を葦の籠に乗せて川へ逃がしました。神のみこころにより、籠はエジプトの王女に拾われ、モーセはエジプト王家のひとりとして育てられます。しかしモーセは40歳の時、同胞イスラエル人を助けるためにエジプト人を殺してしまい、ミデヤン人のもとへと逃げ出しました。そこで彼はチッポラというミデヤン人女性と結婚し、そしてホレブで神に出会うまで40年間、羊飼いとして過ごしました。そして出エジプト記18章にはこんなことが書かれています。
 エジプトを脱出して二ヶ月後、彼ら総勢200万人と言われるイスラエル人たちは、シナイ山にとどまっていました。そのときチッポラの父で、モーセにとってはしゅうとにあたるイテロが彼らのところを訪問します。モーセとイテロは、親子水入らずの時を過ごすのですが、イテロはモーセの生活を見て驚くのです。というのは、200万の民が、あらゆる問題をモーセのところに持ってきます。モーセはそれを処理するのに一日中かかりっきりで、へとへとに疲れ果てていたからです。
 そこでイテロはこう助言しました。「モーセ、あなたひとりで200万の民すべての問題をさばけるはずがありません。あなたは、あなたにしかできないこと、つまり神の前に民のとりなしをするという霊的な仕事に専念すべきです。その他のことは、信頼できるリーダーを民の中から選んで、彼らにゆだねなさい。千人、百人、五十人、十人、それぞれにリーダーを立てて、小さな事件は彼ら自身にさばかせるのです」。
 リーダーシップの分与という点で、このことからも大変学ぶ所は多いのですが、申命記でモーセは別の視点からこの出来事を振り返っています。彼に助言を授けたイテロについて、申命記ではまったく触れていません。代わりに触れられているのは「あなたがた」という言葉です。9節、「私はあの時、あなたがたにこう言った。「私だけではあなたがたの重荷を負うことはできない」」。13節、「あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人を出しなさい」。14節、「すると、あなたがたは私に答えて、「あなたが、しようと言われることは良い」と言った」。
 出エジプト記では、イテロの助言のもと、モーセがリーダーたちを選んだことが記録されています。しかしこの申命記では、モーセは提案者にすぎず、イテロについては触れられてもいない。大事なのは、実際にリーダーを選び、重荷を共に担ってくれたのは「あなたがた」だという視点です。これはとても大事な視点です。教会という神のからだを考えるとき、大切なのはリーダーシップそのものではありません。誰のためのリーダーシップなのか、ということです。


 クリスチャン人口1%未満にあえぐ日本で、ある牧師はこのモーセが選択したリーダーシップを過剰に強調し、このように組織化されなければ教会に将来はないと言います。しかしビル・ハルというアメリカの神学者はこう言っています。
 非常に才能があり、創造的で起業家的な牧師たちが、上位5%を独占している。彼らは非常に有能で、神様は彼らを[大衆のミニストリーに]大きく用いておられる。しかし、私たちが求めるモデルとしては、彼らは有益であるよりもむしろ多くの害を与えている。大部分の牧師たちは、これら上位5%の牧師たちについて実際に聞いたり、目にしたりしなかったとしたら、もっとすばらしい牧会をしていたであろう。この上位5%の牧師たちは、普通の牧師たちにとっては非現実的であり、到達不可能な、さらに彼らの働きに挫折感を与える、有害なモデルのみを提供しているにすぎない。上位5%のようにならなければならないという負担感が、多くの牧師たちをダメにしている。
(玉 漢欽「信徒を目覚めさせよう 改訂版」清水義人監訳、小牧者出版、2002、p.27)

 繰り返しますが、大切なのは牧師のリーダーシップに依存した教会ではなく、ひとり一人を「あなたがた」と親しく呼びかけ、一人として第三者にならない教会のあり方でしょう。モーセが自分の生涯を振り返ったとき、真っ先に出て来たのは、私はこうやって200万人をまとめたという自負ではありません。一人の人としての限界を認め、「あなたがたが民の重荷を担ってくれた」という感謝が、真っ先に飛び出したことでした。
 先日の新潟聖書学院スペシャルナイトで、東京女子大元学長の湊 晶子先生が「人生の座標軸」というメッセージを語られました。縦軸と横軸をどのように定めるかによって、ぶれることのない人生が決まるというチャレンジでした。十字架も、人生の座標軸にたとえられることがあります。縦軸と横軸の代わりに縦木と横木があります。縦木は神と私との関係を表し、横木は周囲との関係を表す。縦木が歪めば、横木も傾きます。神との一対一の関係が築けていなければ、交わりと言いつつ、それはお互いの徳を高めることもない、むなしいものとなる。また逆に他の人々を顧みないような横木の歪みは、その人の信仰を独善的な、自己満足へとおとしめてしまいます。
 十字架という人生の座標軸について考えるとき、今日のモーセの言葉はまことに象徴的ではないでしょうか。縦軸、つまり神が命じられたことばをことごとく語ろうとして口を開いたとき、そこでモーセが真っ先に語ったのはじつは、自分がリーダーとしての限界を感じたときに、その重荷を担ってくれたのは数え切れない仲間たちだったと言うのです。牧師たちはしばしば自分の教会に「みことばに生きる信仰」「みことばに立つ教会」というスローガンをくっつけます。しかしそれは、まわりがどうあろうとみことば、みことばということではありません。まわりの人々を顧みることがなければ、そのみことばは偽善の隠れ蓑になるということです。十字架を見上げるとは、一人で十字架の前に立っているのではありません。お互いに手をつなぎながら、すべての信徒が、求道者が、神を愛する人々が、十字架を丸く取り囲みながら、そこで命を捨てられたイエスをまっすぐに見つめる、それが縦軸と横軸が垂直に交わる、私たちの信仰です。
 私たちは人生の中で様々な失敗をします。傷つく経験もします。しかし私たちに与えられた交わりは、それらの痛みや傷に対して無力ではない。みことばと共に交わりが働くとき、その中心の交点にあるのが愛です。そして愛は、すべての罪を覆います。モーセの唇はこの後、忘れることのできない40年前の罪を語ります。しかし罪を罪として認めつつ、彼は罪の告発者ではなく、励まし手としてそこに立っています。私たちも、十字架を中心としたみことばと交わりがあるからこそ、今なお自分の内外で蠢き続ける罪と戦うことができるのです。神の愛が余す所なく語られたみことばを、そして「おかげさま」を聖書的に体現する交わりのうるわしさを、ひとり一人がかみしめて歩んでいきましょう。

注:文中のビル・ハルの引用は、玉漢欽「信徒を目覚めさせよう」(小牧者出版)を二次資料(孫引き)としています。牧師(近)は数年前より、小牧者出版の書籍を一切購入しておりません。無罪判決は出たものの、いまだに教会に大きなつまずきを与え、被害者の心はいやされていないと思います。この引用が、国際福音キリスト教会と小牧者出版ならびに主任牧師を支持しているものではないことをご理解ください。
posted by 近 at 19:26 | Comment(0) | 2012年のメッセージ
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