聖書箇所 ヨハネ8:12
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
ちょうど一年前の12月11日の礼拝で、私は「母たちは分かち合う」という説教をしました。それは聖書の中に出てくるマリヤとエリサベツという二人の母の姿を、今日証しをしてくださった麻美さんと敬子さんに重ねたメッセージでありました。エリサベツは年老いた女性でしたが、神さまのあわれみによりヨハネという子供を授かります。そしてその半年後、エリサベツの親戚にあたるマリヤは、まだ処女でありましたが、神の子イエスを身ごもるという奇跡を経験します。同じように神のみわざを経験し、そしてそれを分かち合っていった二人の母の姿を、ちょうど数ヶ月の間をおいてそれぞれ胎の実を授かっていた麻美さんと敬子さんに重ねていました。ただ敬子さんがマリヤというのはいいのですが、麻美さんを老女エリサベツにたとえてしまったので、後で怒られないかとひやひやしながら語っていました。
一年前、共にお腹を大きくして礼拝に通っていた二人の姉妹は、今年の3月、5月それぞれに神のみむねにより赤子を出産しました。片山愛花さんと片山祈詩さん。おそらく本人たちは今日のことを思い出すということはないでしょう。しかし二組の若き両親たち、そしてここに集った私たちはこの日を忘れてはなりません。愛花さんと祈詩さんは、神の約束の子供です。ヨハネとイエス様が後に成長して、それぞれが人類の歴史において誰も代わることのできない大切な使命を果たしました。同じように、今は二人の母の懐で安らいでいる愛花さんと祈詩さんも、神は特別の計画をご用意しておられます。二人の両親は、そのことを確信しているがゆえに、今日献児式を行いました。献児とは、文字通りわが子を神にささげることです。それは大人になったら牧師とか宣教師にしますという意味ではありません。愛花の人生は神さまのものです、祈詩の人生は神さまのものですと告白することです。親にとって、子供の人生は私のものではなく、神さまのものですと告白することは、信仰がなければ決断し得ないことです。
じつに、いったいどれだけの親が、わが子の人生を自分のものと誤解し、その人生を誤らせてきたことでしょうか。今日の説教題を、私は「子故の闇」という言葉から始めました。もちろんこれは私の造った言葉ではなく、昔から日本に伝わる言葉です。なぜその言葉を、説教題に選んだのか。それは、たとえどんなに子を思う心を持っていたとしても、親は自分の経験や人生観により頼んでいるならば方向を誤ってしまいます。だからこそ聖書という、決して変わることのない、確かな規準をもって、子供を教え導いていただきたいと願うのです。「子故の闇」を白鳥の親子にたとえた、ある短い小説があります。大正時代の劇作家、秋田雨雀という人が書いた作品ですが、これを紹介しましょう。
ある湖のほとりに白鳥の夫婦が住んでいました。二匹ともそれは美しい白鳥でしたが、彼らは二匹とも片目でした。しかし白鳥のこの夫妻は、何を見ても、何を話し合っても、ことごとく意見が一致したので、自分たちほど世の中を正しく見ている者はいないと信じて疑わなかったのです。やがてこの二匹の間に四羽のひなが生まれました。喜んだのも束の間、両親は四羽のひなを見て悲しく思いました。四羽とも二つずつの目を持っていたからです。
ひなたちの二つの目には、両親の片目に映る世界よりも広い世界が見えていました。彼らは両親の心配をよそに、まだ翼も育たないうちから、遠くのほうまで遊びにいくのでした。白鳥の夫婦は、子供たちがこの湖に満足せず、外の世界に心を奪われているのは、目が二つもあるからだと判断しました。そこで考え抜いたすえ、子供たちの幸せのために、と悲しみに耐えながらある計画を実行します。子供たちが寝ている間に、目を片方だけつぶしてしまったのです。子供たちはなぜ自分が片目になったのかわからないまま、それでもそれぞれ美しい白鳥として成長していきました。しかしある日、二羽の大鷲が彼らを鋭い爪にかけ、あっという間に空高く連れ去ってしまいます。片目にされた子どもたちは、大わしが襲ってくるのが見えなかったのです。
悲劇的なこの寓話のタイトルは、「白鳥の国」と言います。100年前に書かれたこの物語は、まるで今日のこの国こそ白鳥の国だと言いたげではないでしょうか。放任主義の親がいるかと思えば、子どもの人生を自分の夢のやり直しのように利用する親もいる。どの親も自分の教育こそ最高と信じているが、それはまさに片目の白鳥があふれた国の姿です。なぜそのようなことが起こるのか。それは、親が自分の経験や考え、つまり片目の世界を子どもに知らず知らずのうちに押しつけてしまうからです。もちろんそこには、親としての深い愛もあることは否定できません。しかしだからこそ、子故の闇という言葉が残ってきたのです。愛は真理によって常に軌道修正されなければなりません。そして真理は、二千年間変わることのない聖書の中にこそあります。健司くんと麻美さん、浩司くんと敬子さんは親としてはまだ始まったばかりでも、信仰者として長く歩んできました。ただの親としてではなく、先に聖書の豊かな恵みを味わってきた者として、わが子に与えられるものを持っています。だからこそ、「聖徒故の光」があなたがたにはあります。イエス・キリストは人々にこう語られました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」。
人は闇に迷いやすいものです。親であればなおさらです。片目の白鳥の姿は、すべての親の姿かもしれません。しかし親なる生き物がたとえそのような者であっても、キリストのみことばに従って歩むならば、そこには闇ではなくて光があります。これから、親としての足りなさに気づくこともあるでしょう。ありのままの姿を愛そうと願いながら、気づけば自分の理想を子どもに押しつけているということもあるかもしれません。しかしいつも思い出してほしいのは、今日あなたがたは、わが子を神にささげたということです。子どもたちの分別がつくまでは、親には信仰を伝えていく責任があります。でも最終的な責任は、今日神さまが負ってくださいました。愛花さんは神の子どもです。祈詩さんは神の子どもです。イエス様がご自身の命をもって買い戻してくださった、神の子どもです。今はこの言葉も、二人には音としてしか聞こえないでしょうが、やがて彼女らは親を通して声としてみことばを聞き、そして自分自身の決断としてイエス様を受け入れる時が来るでしょう。二人のご両親が、自分もまた同じ道を歩んできた信仰の先達として、聖徒故の光を愛花さん、祈詩さんに分け与えていくことができるように。