※礼拝説教の前に、教団の宣教121周年記念大会に参加した姉妹(横堀姉)の証しがありました。
聖書箇所 イザヤ書8章19節-9章7節
8:19 人々があなたがたに、「霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ」と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。20 おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。21 彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。22 地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。
9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」。イエス・キリストの誕生を預言した言葉として、クリスマスの時期にはこのみことばから説教されることが多くあります。しかしこの言葉が語られる背景には、一体どれだけの霊的暗黒がイスラエルを覆っていたのか。じつに、神の民であるイスラエルがすがっていたのは霊媒師や口寄せといった、死者の霊を呼び出す人々でした。生きている人々があてにならないから、死者の霊に尋ねよう。これが神の民の現実、というところから今日の箇所は始まります。
「彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる」。「飢える」という言葉が二回も繰り返されています。これは食物の飢えではありません。たましいに飢えているのです。みことばに飢えているのです。人がもし死人の声にのみ希望を抱くような霊的暗黒の状態にとどまり続けるならば、どこを探してもそこには偽りの希望しかありません。今世の中はクリスマスということで、一晩中ツリーのネオンが町に溢れています。また今日は総選挙の日です。自らの一票に、この国の希望を託す人々もいるでしょう。しかし人がみことばによって、ほんものの光を受けないのであれば、どんなに夜を明るくしても、どんなに社会を良くしようと叫んでも、心の暗やみは決して晴れることがありません。ただ聖書のことばだけが、暗やみの支配する地上で生きる人々に、ほんものの希望を与えることができるのです。
どんな暗やみが支配しているところも、神の御手が差し伸ばされないところはないのです。9章1節で、聖書は劇的にこう語ります。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた」。異邦人のガリラヤは光栄を「受けた」。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を「見た」。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が「照った」。「受けた」「見た」「照った」と、すべて過去形で繰り返されます。イザヤの目には、このガリラヤに生きる人々の上に大きな光がさす光景が、すでに起こったこととして鮮やかに映っていたのです。人は時間の中で生きる存在であり、この苦しみがいつまで続くのか、と考えます。時がくれば苦しみが去るに違いない、とむなしい希望を抱きます。そしていつまで経っても暗やみが夜明けに変わらないのを見て、天をのろう。しかし神の永遠の計画の中では、すでに暗やみは取り除かれている。現実がどんなに苦しみに満ちていようとも、この神の永遠の視点を持つことができれば、夜明けの光はすでにその人の上に差し込んでいるのです。
では、その神の永遠の視点を私たちに与えてくれるのは何でしょうか。やはりみことばです。すべての人は草、草はしおれ、花は散る、しかし神の言葉は永遠に立つと聖書は言う。この神のことばだけが、私たちに永遠への視点を与えてくれます。この世には苦しみが多くあります。その苦しみの現実だけに目が奪われているならば、どんな慰めや励ましも気休めでしかありません。しかし私たちが聖書を通して、神がすでにその暗やみを取り除かれているということを知るならば、光栄を受けた、光が照ったということが逆に現実となるのです。ほんとうの希望とは地上の現実にではなく、この永遠の神のことばにこそあるということを今一度、味わいたいと願うのです。
そしてその神のみことばは、私たちにはっきりと救い主の誕生を約束しています。6節、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる」。不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君。私たちはこの救い主がイエス・キリストを指すということをすでに知っています。人としてお生まれになりながら、神としての性質を持っておられた方。神ご自身でありながら、神の子として謙遜と柔和に徹した方。力によって人を罪の奴隷から救ったのでなく、ご自分が犠牲になるという十字架を通して救われた、まさに平和の君と呼ばれるにふさわしい方でした。そしてここでもイザヤのくちびるは時を超えて希望をうたいます。「今より、とこしえまでと」。
彼はイエス・キリストが生まれる七百年以上前に生きた人間でした。しかしにもかかわらず、この救い主を見上げ「今より、とこしえまで」と叫ぶのです。彼の目には、救い主イエス・キリストが馬小屋に生まれ、十字架で勝利を宣言する光景が、遠い将来ではなく、今目の前に起こっていることとして映っていました。
「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」。ご自分の御子を十字架に渡してまで、人々を救おうとされる。ここに地上の希望など比べる余地もない、神がいのちがけで成し遂げようとする、ほんとうの希望がある。永遠の神が、時を超えて必ず実現してくださる、ほんとうの希望がある。イザヤは今それを確信し、それゆえに「今よりとこしえまで」と叫ばずにはいられなかったのです。
私たちにとって、ほんとうの希望というのはどこにあるのでしょうか。ただ地上の現実だけを見て、心の目を開こうとしないならば、決してそこには希望はない。ただみことばを通して、永遠の神がすでに暗やみを打ち破り、光を与えてくださっているという心の目をもって現実を見るときに、そこにほんとうの希望が見えるのです。そして神が私たちに与えてくださった希望とは、このイエス・キリストが私たちのために生まれる、という永遠の約束にほかならない。私たちは何という大きな希望を今すでに手にしているのか。それを心に刻みつけましょう。ひとり一人が、この暗やみの時代の中にあっても、イエス・キリストによって与えられるほんとうの希望をつかみ続けていきたいと願います。