※クリスマス特別礼拝でした。礼拝の最初の部分(8分程度)も撮影しましたのでご覧ください。
聖書箇所 ルカの福音書2章8−20節
8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

20世紀のアメリカの木版画家、フリッツ・アイヘンバーグの作品に「行列の中のイエス(Jesus of the breadline)」というものがあります。行列と訳した言葉は英語では「breadline」、食料の配給を待つ列のことです。おそらく災害とかの救援物資ではなく、今でいうホームレスの人々が並んでいる配給の列でしょう。絵をじっと見ると、ある者は寒そうに上着の襟を立て、またある者は苦々しい表情で順番を待っています。そんな構図のちょうど真ん中にイエスが立っている。その立ち姿は真っ黒で、表情をうかがい知ることはできません。ほほ笑んでいるのか、それとも顔をしかめているのか。ただわかるのは、このような貧しさ、そして失望のただ中にある人々の、そのちょうど真ん中にイエスはおられるということです。
アイヘンバーグが生まれたのは、ちょうど20世紀が幕を開けた1901年、ドイツのユダヤ人家庭でした。30代のとき、ドイツではあのヒトラー率いるナチス党が政権をとり、ユダヤ人に対する迫害が始まりました。彼は家族と共にドイツを離れ、自由の国アメリカへと渡っていきます。しかしアメリカもまた、その自由は富む者たちにとっての自由であり、貧しき者たちは資本主義の奴隷となっている姿を彼は見ます。数年後、戦争は終わりヨーロッパはナチスから解放されましたが、アメリカの貧しい者たちはいまだに奴隷のままでした。その中で彼は、パンの配給を待ち続ける行列の中にイエスを見いだします。イエスは教会の中にいるのではない。恵みから落ちてしまったと見える、最も貧しい人々のただ中にこそ、イエスはおられるのだ、と。
神は、もっとも神にふさわしくないと思われるようなところに降りてこられる!二千年前のクリスマスに、この真理が明らかにされました。御使いは驚きあわてる羊飼いたちにこう語りかけます。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」。彼らは自分の耳を疑ったでしょう。救い主が、家畜のえさを入れる飼い葉おけに寝かされているだって?神殿でも、王の宮殿でもなく、ベツレヘムで一番上等な宿屋のベッドでもなく、飼い葉おけにだって?そこは救い主には到底ふさわしくない場所でしょう。だが羊飼いたちがそこでつまずいた様子はありません。彼らはすぐに、「さあ、ベツレヘムに行って、この出来事を見てこよう」と話し合い、馬小屋を探しに出かけます。
なぜ彼らは、救い主が飼い葉おけに生まれるなどというあり得ないことを素直に受け入れることができたのでしょうか。それは、神がもっとも神にふさわしいところにまで降りてこられることを、自分たちがたった今経験したからです。いつも貧しく、雇い主からも人として満足に扱われない人々が、彼ら羊飼いでした。神は、その羊飼いに真っ先に福音を告げてくださったのだ!神の恵みにまったくふさわしくない、私たち羊飼いに真っ先に教えてくださったのだ!そんな神さまなんだもの、飼い葉おけの中にお生まれになることだって喜んで受け入れてくださったのだ。彼らはそう思ったのではないでしょうか。
今日の聖書物語を描いたものに、「荒野の果てに」と呼ばれる讃美歌があります。
「荒野の果てに/夕日は落ちて/たえなる調べ/天より響く」。
しかし間違えてはなりません。この物語の中心は、荒野に落ちる夕日の美しさでもなければ、御使いたちの讃美の歌声でもない。中心は羊飼いたちです。彼らは神に招かれた者たちなのです。御使いが荒野に降りて来たら、たまたまそこに羊飼いたちがいた、ということではないのです。御使いは、荒野で歌うために降りてきたのではありません。羊飼いに良き知らせを伝えるために来たのです。もし羊飼いが荒野にいなかったら、物語はどうなっていたでしょうか?御使いは羊飼いの家にまで押しかけたことでしょう。いったい羊飼いに、そんな価値があるのでしょうか?
そう、彼らには価値があります。だから彼らはこの良き知らせに招かれたのです。この世の王、貴族、彼らの雇い主、町の人々、だれにも与えられない特権が羊飼いたちに与えられました。羊飼いたちは、あらゆる時代の、神の恵みを受ける人々の代表として選ばれたのです。名もないすべての者を、すべての貧しい者たちを、すべての取税人や遊女たちを、すべての迫害された者たちを。彼らが自分自身をどう見ているかは重要ではありません。重要なのは、神が彼らを選び、招いておられるということです。資格や条件が書かれているチェックリストは、人間ではなく神が持っています。
アイヘンバーグの「行列の中のイエス」には、20世紀の羊飼いたちが描かれています。イエスのすぐ後ろには、ぼろぼろの布をまとった男性が主の背中を見つめています。その後ろにはポケットに手をつっこんで無表情に天を仰ぐ老人。さらにその後ろには、逆に地面を見つめている、杖をついた老人の姿があります。彼らは現代の羊飼いたちです。自分は社会に必要とされていないと考えている人々です。実際、社会も彼らを不適応者とみなしています。では、彼らと私たちとの違いは何でしょうか?私たちには定職があり、財産があり、私を必要としている家族がいるでしょう。だがそれは私たちが手にいれたか、与えられたものでしかない。裸になれば、私たちの姿と彼らの姿は本質的に何も変わらないのです。つまり、私たちもまたこの列の中に並んでいるのです。救い主が私のために生まれたという知らせを真っ先に必要としている者たちなのです。
あえてこの聖書の中にある「羊飼い」という言葉に自分の名前を入れてみましょう。神は、あなたに真っ先にこの良い知らせを伝えたいと願っておられます。クリスマスは救い主があなたのために生まれた日なのだという事実を、たとえ世の人々は知らないままでも、あなたにだけは知ってほしいと神は願っておられます。この飼い葉おけのみどり子イエス・キリストだけが、あなたの罪を消し去ることのできるお方です。この方以外にはあなたが永遠の滅びから解放される道はありません。行列に並んでいれば、その日のパンにはありつけます。だがやがてこの人生は突然終わりを告げます。最後に食べるのが配給でもらったパンであれ、自分の稼ぎで買ってきたものであれ、愛する家族に作ってもらったものであれ、本質的にはどれもなくなる食べ物です。しかし決してなくならない食物があるとイエスは言われました。それは永遠のいのちである、と。それを与えるために、イエスは二千年前、飼い葉おけの中にお生まれになりました。神として最もふさわしくない場所にお生まれになりました。神の恵みから最も遠いと思われていた羊飼いたちに真っ先に知らせを持ってこられました。そしてあなたもまた、招かれているのです。クリスマスの最高の贈り物を受け取るために。どうかこのクリスマスが、あなたの人生にイエス・キリストという決して消えることのないプレゼントを受け取る時となりますように。