※礼拝説教の前に、教団の宣教121周年記念大会に参加した兄弟(片山兄)の証しがありました。
聖書箇所 テサロニケ人への手紙 第一5章1-11節
1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。3 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。
2012年も残りわずかとなりました。世間を騒がせた「地球最後の日」もいつのまにか通り過ぎていたと思ったら、今度はマヤ暦ではなくエジプトの言い伝えで、三年後に地球最後の日が来るということだそうです。たぶん私たちは、これからも「今年は地球最後の日」というニュースをしばしば聞かされることになるのでしょう。イソップ物語にある「狼少年」の話を思い出します。ある村に「狼が来たぞ」 とうそを叫ぶ少年がいました。村人たちははじめはその言葉を信じていましたが、来る日も来る日も少年が嘘をつくもので、誰も駆けつけて来なくなってしまう。するとある日、本当に狼が出ました。狼に羊が全部食べられてしまうと記憶していたのですが、イソップの原作を読み直すとじつはこの少年が食べられるという悲劇になっていました。
イソップ物語を改めて読み直して気づいたのですが、じつはこの物語の題名は「狼少年」ではなく「羊飼いと狼」でした。先週はちょうどクリスマスメッセージで羊飼いの話をしましたが、羊飼いが語るべきはうそや噂ではなく、真実な知らせでなければなりません。悪しき羊飼いはマヤだのエジプトだのを持ち出して「狼が来たぞ」と世を惑わそうとします。しかし教会は、世の終わりについて正しく伝えていかなければならない、そしてそのためにみことばを開きましょう。パウロは2節でこう言います。「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです」。
あなたがた自身がよく承知している、とはどういうことでしょうか。イエス様が主の日を盗人にたとえて語っていたことを指しています。テサロニケの人々よ、あなたがたに伝えられた主のみことばをもう一度よくかみしめなさい。主はどのように言っていたか、思い出しなさい。そんなパウロの呼びかけが聞こえてきます。マタイの福音書24章にはこのようにありました。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。確かに主の日は泥棒のようにやって来ます。しかし間違えないでください。泥棒にたとえられているのは主の日であって、主ご自身ではないということです。主は泥棒のようではなく、まさに私たちの主人として地上に再び来られます。私たちを脅し、奪い、傷つけるために来られるのではなく、私たちをご自分の都へ迎えるために来られるのです。
自分自身の生活を振り返ってみましょう。とてもイエスさまの前に喜んで出ていけるような状態じゃない。だからできれば再臨が来ないでほしい。そう考えてしまう人もいるでしょう。しかし私たちが救われたのは自分の行いによるのではないのです。ただ恵みにより私たちは救われ、そして主のしもべとなりました。人は行いによってしもべになるのではなく、主が召してくださるからこそしもべとなれるのです。行いであれば、クリスチャンでなくてももっと立派な人もいるでしょう。しかし人の側の行いではなく、神の側の招きであるからこそ、私たちには確信があるのです。パウロは6節でこう言います。「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう」。
この「慎み深く」と訳されている言葉、ギリシャ語の「ネーフォー」は、新約聖書の中で6回登場します。「慎み深く」が6回しか登場しないなんて、意外だと思いませんか。じつはこの「ネーフォー」という言葉は再臨にしか用いられない言葉なのです。たとえばペテロの手紙第一ではこう言われます。4章7節、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい」。5章8節、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」。あるいはこのテサロニケ第一5章8節、「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう」。
ここに共通しているのは、再臨が近づくにつれて私たちよりもあわてているのは悪魔のほうなのだということです。イエスが再臨されるのは、クリスチャンをさばくためではなく悪魔を永遠にさばくためです。だから彼らは断末魔の悲鳴をあげながら、獅子のように叫び続けます。あわよくば教会を動揺させ、一人でも多くの信仰者をつまずかせようともがくのです。そのために私たちが主の招きではなく自分の行いにしがみつくように、悪魔はクリスチャンを試みてきます。しかし聖書は何と言っているでしょうか。9節のことばを心に刻みつけましょう。「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです」。
クリスチャンが再臨を恐れではなく、喜びをもって待ち望むことができる理由がここにあります。神がお定めになったことに、人も、悪魔も、御使いも、あらゆる権威も権力もあらがうことができません。そして神は私たちが御怒りに会うように定めたのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るように定められたのです。続けてみことばがこう約束しているとおりです。10節、「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです」。
あなたの中には、主の前に堂々と出ていけない弱さがあるかもしれません。目をさまし、慎み深く生きよと言われても、それを実行できない無力さを感じることもあるかもしれません。しかし私たちが再臨の時にもさばかれないのは、決して正しいクリスチャン生活のごほうびではありません。誰がどのように評価しようと、神が私たちを義としてくださったという事実によるのです。私はあなたとともに共に生きたいのだと、イエス様がご自分のいのちを差し出してくださったのです。その愛に答えていくために私たちは何をすべきでしょうか。慎み深く、主が再び来られる日を待ち望むのです。慎み深く待ち望むとは、自分の正しさによりたのむ生き方ではなく、ただキリストの贖いに自分の救いの根拠をおく生き方です。私たちがどれだけ欠けだらけの者だとしても、主は私たちをしもべと見ておられます。この一年、みなさんはその信仰にとどまって歩んでこられました。どうか新しく始まる一年も、その確かな信仰に踏みとどまって歩んでいただきたいと願います。