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2013.1.6「まことのぶどう酒」

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※礼拝説教の前に、フィジーから日本に来ている、ジム・ブラウン兄の証しがありました。(通訳は、客会員の渡辺アロマ姉)




聖書箇所 ヨハネの福音書2章1-11節
  1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──彼は、花婿を呼んで、10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 今日はジム・ブラウン兄が英語で証しをしてくださいました。通訳をしてくださった渡辺アロマ姉にも感謝いたします。フィジーの公用語は英語とフィジー語の両方だそうで、インターネットで調べると、旅行者は次の二つのフィジー語だけはおぼえておけということでした。「こんにちは」の「ブラ」、「ありがとう」の「ビナカ」、この二つをおぼえて、あとは笑顔で乗り切れるのがフィジー!だそうです。ジムが言葉の壁を乗り越えて私たちにいつもクリスチャンスマイルを与え続けてくれたことに「ビナカ」。たった二つの言葉を覚えるだけで、何かフィジーに飛んで行けそうな気がします。

 一方で、一つの言葉が私たちの信仰をつまずかせるということもあります。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方」。えっ、これがイエス様がお母さんに言った言葉なの?なんか聖家族のイメージががらがらと崩れていくような、イエス様の言葉です。しかし最後の呼びかけに注目しましょう。「女の方」という言葉です。ギリシャ語では「ギュナイ」というこの単語は、新約聖書の中に215回出て来ます。とうてい調べ切れる数ではありません。しかしイエス様が母マリヤにギュナイと呼びかけている場面が、聖書の中にもう一箇所だけあります。それは、イエス様が十字架の上から母と、その傍らにいる弟子に呼びかける場面です。ヨハネ19章26節、「女の方。そこに、あなたの息子がいます」。

 婚礼の席と、十字架の上で、共に母マリヤに投げかけられた「女の方」という呼びかけ。これはただの偶然でしょうか。そうではありません。イエスは婚礼の席で、すでに十字架を見つめておられたのです。そう考えると、私たちにつまずきを与え兼ねないイエス様の言葉が、むしろ十字架に対する決意なのだとわかってくるのです。「あなたは私と何の関係があるのでしょう、女の方」。母よ、あなたには今は見えないが、やがて見えてくるものがあります。母よ、あなたには今隠されているが、やがてあなたの前に現れてくるものがあります。それが私が進もうとしている十字架です。母よ、今あなたは婚礼客の杯に注がれるべきぶどう酒がないことに気づかれましたね。わたしは彼らにぶどう酒を与えましょう。でもそれは飲んでもすぐに渇きます。しかしわたしは、やがて来たる十字架での「わたしの時」には、永遠に渇くことのないぶどう酒を人々に与えましょう。人の心に永遠の活力と喜びを与える、まことのぶどう酒を。

 聖書は、マリヤが手伝いの人々にこう言ったと記録します。「あの方の言われることを、何でもしてあげてください」。息子の一見拒絶と見える言葉の中に、母は見いだしたのです。かつて彼女が預言者シメオンから伝えられていた、十字架への悲しみの道を。そして私たちはマリヤのこの言葉から学ぶべきです。もし彼女が前もってこれらの手伝いの者たちに伝えていなければ、水をぶどう酒に変える奇跡は人々に届けられなかったのです。



 水はいつぶどう酒に変わったのでしょうか。手伝いの者たちは、水がめを水でいっぱいにしました。ではそこでイエス様が水をぶどう酒に変えたのでしょうか。じつは聖書は明らかにしていないのです。彼らは水から変えられたぶどう酒を持っていたのか、それとも水のまま、それを世話人たちのところに持っていったのか。

 もし手伝いの者たちが、水に変わったぶどう酒を運んでいったとすれば、そこに信仰は必要ありません。だってぶどう酒なんですから。奇跡に驚き、あるいは感謝はしたかもしれませんが信仰は必要ありません。でも神の奇跡というのは、人々が信仰をもって受けとめる時に初めて生きるのです。信仰のいらない奇跡であれば、それは手品です。マジックです。その時には驚かれても、すぐに忘れられてしまうものです。私はこう考えます。手伝いの者たちがイエス様から「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持っていきなさい」と言われたときも、それは彼らの目にはただの水にしか見えなかったのではないか、と。しかしマリヤの言葉、「あの方の言われることを、何でもしてあげてください」が、彼らにその水を持って行かせた。それはマリヤの信仰が、水をくんだ手伝いの者たちの信仰も導いたということです。

 私は奇跡を否定しません。しかし奇跡が起こりさえすれば人は救われるのではない。奇跡は、信仰をもってそこに参画する者たちがいてこそ奇跡たり得るのです。あなたの信仰が、奇跡を起こしてくださいという祈りにとどまっているのならば、それをこう改めるべきです。神よ。あなたは奇跡を起こしてくださいます。人が見るようにあなたは見られないお方です。ただ私をその奇跡の協力者とさせてください。マリヤのように、水を汲んだ者たちのように、あなたの偉大なみわざに参画する者とさせてください、と。

 イエス様は確かに水をぶどう酒に変えてくださいました。だがそれは、やがて十字架の上でなされる奇跡の、いわば前味でしかありません。カナで婚礼を挙げた家にあったのは、ユダヤ人のきよめのしきたりによる、石の水がめでした。しかも完全数7にひとつ足りない、六つ。これは、どんなに自らをきよめようとしても、水では完全にきよめられないことを象徴しています。では、何によって完全にきよめられることができるのか。血です。イエスの血によらなければ、内側から完全にきよめられることはないのです。そのために十字架があり、イエス様はその十字架の前哨戦として、このカナの婚礼でぶどう酒を人々に与えられた。そして十字架において、本物のぶどう酒が与えられるのです。本物のぶどう酒とは何でしょうか。それは、聖餐式で私たちが何度も聞いている言葉です。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしをおぼえなさい」と。ぶどう酒はイエスの血。イエスの血はまことのぶどう酒。私たちは、今それを受け取り、永遠のいのちを味わいながら生きていくのです。

 今日、聖餐式にあずかったひとり一人の心の中に、イエス様が与えてくださる永遠の喜びがいつまでもとどまりますように。
posted by 近 at 19:26 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
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