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2013.1.13「キリストがあなたの中に」

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聖書箇所 コリント人への手紙 第一12章14-27節
14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

 猫の手も借りたいほど忙しい、という言葉がありますが、そんなときこう考えることはないでしょうか。「ああ、もうひとつ自分のからだがあればいいのになあ」。今日は、そんな願いを叶えてもらったある人の話から始めたいと思います。といっても、実在の人物でも、有名な文学小説でもありません。マンガ「ドラえもん」に出てくるのび太少年の話です。

 今日もたくさんの宿題を出されたのび太くん。ガキ大将からはサッカーのメンバーが足りないから早く来いとおどされ、必死になって宿題にとりかかっていたところ、お母さんからもおつかいを頼まれます。そこでのび太くん、つぶやきました。「もうひとつ自分のからだがあればいいのに。そんな道具はないかなあ?」そこで「あるよ」と言ってドラえもんが取り出したのは、手術台に大きな回転のこぎりがついているような形をした未来の道具、「人間切断機」。怯えるのび太くんにドラえもんは一切の説明もなく、あっという間にのび太くんは腰から上と下に分けられてしまいます。
 腰から上だけののび太くんは、机の上で宿題を続け、腰から下ののび太くんはお使いに行ったりサッカーに加わったりします。ところがやがて腰から下ののび太くんはこう考えるようになるのです。いつも道で転んだり、つまずいたりしてみんなからバカにされるのは、腰から上に重いものが乗っかっているせいだ。お菓子を食べるのはいつも上の口。テレビを見るのも上の目と耳。不公平じゃないか。もうあんな生活はまっぴらだ。そして腰から下ののび太くんは、そのまま家出してしまうのです。

 まるで今日の聖書箇所を彷彿とさせる内容ではないでしょうか。パウロがこの手紙を書いたコリント教会の中にも、このような不満が溢れていたのです。教会の中で、奇跡的な賜物を持っていた人たちだけがほめそやされ、目立たず、地道な人々は見下されていました。もしかしたら、現代の教会にも同じようなことがあるかもしれません。人の目につきやすい奉仕や働きには皆が感謝するが、そうではないものには関心が寄せられない。あるいは教会だけではなく、家庭にもあるかもしれません。「わし族症候群」という言葉があります。定年直後のサラリーマンが陥りやすいもので、自分ばかりがヒマをもてあまし、忙しく活動している家族を見ると、つい「わしが今まで食わせてやったのに」とか「わしが働いてきた金で、みんな好き勝手しているくせに」と、「わしが」「わしが」と家族を責め始める。そして家族から嫌われる。

 少なくとも教会においては、私たちが忘れてはならないことがあります。それは、すべての奉仕は「私が仕えるのではなく、私の中に生きておられるキリストが仕えておられるのだ」ということです。週報を見ると、礼拝司会、集会当番、音響、掃除と色々な奉仕が書いてあります。ここに書かれている名前の方々は、自分はこの奉仕を通して神に仕えているのだと考えるでしょう。それは半分だけ正解です。私ではなく、私の中に生きておられる神が、私の賜物を通して働かれるのです。神が司会をされます。神が集会当番をされます。神がトイレ掃除をされます。奉仕とはそういうことなのです。だからこそ、神はそれぞれの奉仕者にふさわしい賜物を与えてくださいます。私にはできない、とかあの人だけどうして、と賜物を批判することは愚かなことです。私ではなく、神が私を通して仕えられるのだという思いをもって、教会を建て上げていきましょう。


 からだも同じです。目、耳、鼻、口、手、足、内臓、それらは器官としては違いがあっても、同じ細胞の集まりです。その細胞ひとつ一つに、優れているとか劣っているという違いはありません。しかし異なる目的を果たすために、ある者は目に、ある者は耳に、ある者は心臓に、と作り変えられていく。それぞれが長所もあれば、短所もある。目は見えるがかげない。口は話せるが見えない。それぞれが欠けた所を補い合い、優れた所を分かち合うために違いがあります。まさにパウロの言うとおり「私はあなたを必要としない」などとは決して言えないのです。

 自分の腰から下に家出されてしまったのび太くんは、どうやって彼を取り戻したのでしょうか。しばらく考え込んだドラえもん、そうだ、いいアイディアがある、とのび太くんに大量の水を飲ませました。ごくごく、ごくごく。のび太くんはわけがわからないまま水を飲み続けます。その頃、家から遠く離れていた腰から下ののび太。突然、尿意を催しました。わかりやすく言えば、おしっこがしたくなった。急いで公園のトイレにかけこむ。数秒間、小便器の前に立ち尽くし、そして気づきます。手がないと、ズボンを下げられないということに。マンガの最後は、家に戻ってきた腰から下の部分を、涙を流して抱きしめるのび太の上半身とドラえもんの姿で終わっています。

 私たちは、それぞれが支え合いながら生きているのです。不必要なものなど、何一つない。不必要な人間など、誰ひとりいない。さらにパウロはこう言います。「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです」。「また私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます」と。今までからだを主語として語ってきたパウロが、ここで「私たち」という言葉を主語として用いていることを見落としてはなりません。この世の考え方は、劣った所は改善されなければなりません。あるいは切り落とすという考え方さえあるでしょう。しかし主にあってひとつとされた「私たち」、そう、「私たち」は尊くないとみなす器官をことさらに尊びます。それは、神が弱さのうちに働かれるお方であるからです。ある人が言いました。「弱いという漢字の中には、羽という文字が隠れている」と。弱さを見つめる者は、そこに羽ばたきの音を聞くことでしょう。自分の力で羽ばたくのではない。神が弱さの中におられ、神が空へと引き上げてくださるのです。

 あなたは家族の中で、社会の中で、あるいは教会の中で自分をどんな存在として見ているのでしょうか。自分などいなくても会社は回る、自分よりも優れた人たちがいるのだ、その人たちに比べれば自分なんて。だが次のことは忘れないでください。あなたはあなたであってあなたでないということを。キリストがあなたの中に生きておられる。そしてあなたを通して働かれます。私なんか必要ない、と言うならば、それはキリストなんか必要ないということです。あなたのために、キリストは十字架の身代わりの死をも拒まれなかった。あなたのために、キリストはいのちを捨てることを恥としなかった。何のために。あなたの中に生きるためです。ひとり一人は、決してなくてもいい器官なんかじゃない。今、キリストが生きておられる、そのからだの部分なのです。

posted by 近 at 21:08 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
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