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2013.1.20「犠牲の報酬」

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聖書箇所 ヨハネの福音書4章46-54節
  46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。48 そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」49 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。52 そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに入られてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのである。

 以前、ある信徒の方がこんな経験を話してくださいました。休日に、まだ幼い自分の子どもが高熱を出した。急いでかかりつけの医者に行くと今日は休みだからと他の病院に回され、そこに行くとベッドの空きがないのでと、何十キロも離れた大きな救急病院を紹介された。しかしそこでその親御さんは病院に頭を下げた。そこまで行く時間はありません。どうか子供を診てください。何度も頭を下げると、病院側も対応してくれた、と。細部は違っているかもしれませんが、私がその話を聞いて思わされたのは、親は子供のためならば何でも捨てられるということでした。いつかの説教で「子故の闇」という言葉を紹介しましたが、しかし子のためだったら私のプライドなどいくらでも捨ててやる、というのが親の変わらない姿。46節、47節をもう一度お読みしたいと思います。
 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。

 「王室の役人」の「王室」とは、当時ガリラヤを支配していた国主ヘロデ・アンテパスであろうと思われます。この王は、降誕物語に出てくるヘロデ大王の息子にあたりますが、自分の不品行を公然と批判したバプテスマのヨハネを殺害したのもこのアンテパスでした。イエス様が後にこのアンテパスを「あの狐」とさえ呼んでおられるほどの悪王でした。聖書にははっきりと書いていませんが、そのアンテパスに仕える役人が、イエス様にわが子のいやしを求めるのは、とても勇気のいることだったでしょう。公に人々の前でイエスのいやしを求めることは、自分の主人であるアンテパスに伝わることを覚悟しなければなりません。そしてそれは最悪、この役人の命が奪われる結果になるかもしれません。しかし今、自分の息子が死にかかっている。息子の命と引き替えに、彼は自分の地位、プライド、そして自分の命を捨てました。そしてカナから数十キロ離れたカペナウムから、イエスのもとへやってきたのです。どうか私の子どもが死なないうちに下ってきてください、と求めるために。

 新約聖書には、イエスにいやしを求める数多くの人々が登場します。彼ら彼女らに共通しているのは、大なり小なり、みな犠牲を払って主に近づいているということです。例えば、自分の娘のいやしを願ったツロ・フェニキアの女性がいました。この地方の人々はユダヤ人からは混血として軽蔑されていました。しかし彼女もまた、自分の娘のためにプライドを捨てて主に近づいたのです。逆に、ユダヤ人だが同じように自分の娘のいやしを願った会堂管理者ヤイロがいました。当時、ユダヤ人の宗教指導者がイエスを敵視していた中で、会堂管理者であるヤイロが置かれた立場は極めて困難なものでした。しかし彼もまた、自分の娘のために地位も命も捨てました。他にも長血の女性、ローマの百人隊長、盲人バルテマイなど、イエスにいやされた人たちを挙げればきりがありません。しかし共通しているのは、彼らは富、地位、偏見、葛藤、敵意、およそ私たちが神に近づくことを妨害するあらゆるものを捨てて、主に近づいているのです。そしてそのように犠牲を払って近づく人を、イエスが手ぶらで追い返したという記録は聖書には決してありません。



 私たちはどうでしょうか。今、あなたは何を捨ててこの礼拝でイエスに会おうとしているのでしょうか。ある人は家族の反対を押し切ってここに来ています。ある人はこの時を勝ち取るために、何時間も前に家を出て、今ここにすわっています。そのような犠牲は人の目には見えません。ちょうどこの「王室の役人」が、何を捨ててイエスのもとへ来たかに聖書があえて書いていないように、人の目に見えない犠牲というものがあるのです。しかし神にはすべてが見えています。神は、私たちの思い通りに動く方ではありません。その第一声が、私たちが望んでいるものと違うということもあるでしょう。この役人もそうでした。彼は神にこう求めていました。私と一緒に下って来てください。あなたがカペナウムに来てくださって息子に触れてくだされば、彼は生きるのです。

 しかしイエスの答えは、彼が期待していたものとは違っていた。私は行かない。あなた一人で帰って行きなさい。その言葉を聞いたとき、彼は動揺したでしょう。「あなたがたはしるしと不思議を見ない限り、決して信じない」という言葉にさえ、彼はイエスへの信頼を捨てませんでした。しかしイエスは、繰り返しますが、人の思い通りになる方ではないのです。そしてそれゆえに、人には見えないあなたの払った犠牲を見ておられるお方です。だから、たとえ予想していた答えとは違っても、望んでいた願いとは違っても、その神の答えが最善であると信じ、そこにしがみつく手を離してはなりません。必要なのは、あなたの求める方法で問題が解決することではない。神はあなたの脳みそよりも、あなたの心よりもはるかに大きな方であるからです。必要なのは、どんな方法ではなく、どんな言葉がいただけるかです。イエスは約束してくださいました。「あなたの息子は直っています」と。

 この王室の役人の物語は、同じカナの町で起きた「水をぶどう酒に変えた」奇跡に極めて似通っています。礼拝説教でも二週間前に語ったばかりですので、おぼえておられるでしょう。マリヤも、この役人も同じようにイエス様の一見拒絶と見える言葉を受け取ります。彼らがその言葉を信仰でうけとめるとき、彼らの想像もつかないような方法で奇跡が起こったのも同じです。一方は水をぶどう酒に変えるという奇跡、そしてもう一方は、カナでのいやしの宣言が、数十キロ離れたカペナウムの病人をいやしていたという奇跡です。そしてこの二つの奇跡に共通しているのはもう一点、今、目の前に奇跡が起きていないように見えても、その言葉に従うときに奇跡が起こったということです。水を運んだ手伝いの者たちは、ただの水にしか見えないものを信仰をもって世話役のところに持っていったとき、ぶどう酒に変わっていました。この王室の役人は、言葉しか与えられていなくても、信仰をもって帰途に着いたとき、言葉はいやす力となって息子に働いていたことを知ったのです。

 聖書は53節でこう証言します。「彼自身と彼の家の者がみな信じた」。家族ではなく、「彼の家の者」という言葉の意味は、しもべたちも信仰に入ったということです。父親が家に着いたときではなく、下っていく道の途中で出会ったとあります。父親がことばを信じたちょうどその時、カペナウムでは息子がいやされた。息子を見守っていたしもべたちが、嬉しさのあまりに父親を迎えに行ったということなのでしょう。

 これが犠牲の報酬です。父親が自分の地位、名誉、命さえも犠牲にする覚悟をもってイエスの前に出るとき、家の者すべてが奇跡にあずかり、共に喜びを分かち合い、みなが神を信じたのです。神のことばを信じる者には、くんでもくんでも尽きない泉のように恵みが溢れます。私たちにも、その同じ恵みが約束されているのです。
posted by 近 at 17:33 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
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