聖書箇所 ヨハネの福音書9章1-7節
1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
東京・浅草にある浅草寺には、本堂の前に「おたきあげ」と言われる、大きな鉄の鉢があります。その中には線香が何本も指してあって、参拝のご老人方がその白い煙をこうやってかぶっている様子を、テレビなどで見たことがある方もいるでしょう。これは中国の道教の影響で、線香の煙が体の中の悪いものを直したり、追い出してくれるという言い伝えによるそうです。もしかしたら今日の聖書箇所でイエス様が盲人の瞼に泥を塗りつけたのも、線香の煙を痛い所にすりつけるのと同じようなものと受けとめられてしまうことがあるかもしれません。しかしイエス様のつばきに力があるわけでも、それでこねられた泥に力があるわけでもありません。なぜことばだけで人を生き返らせ、ことばだけで嵐を静めることのできる方が、あえてことばではなく泥をこの人の瞼に塗るという行動に至ったのか。ことばが神となられたというそのお方が、なぜことばではなく泥を用いられたのか。今日はそのことについてみことばから共に考えていきたいと思うのです。
最初に私たちは、この盲人の心の中を見つめるところから始めていきましょう。この人は、生まれつき目の見えない人でした。そして弟子たちは彼に容赦ないことばを浴びせます。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」。ひどいことばです。弟子たちはひそひそ声でイエス様に質問したのでしょうか。しかしどんな小さな声でも、この盲人には聞こえていたでしょう。生まれつき目の見えない人が、物乞いをして生きていくためには、目以外の感覚を研ぎ澄ます以外にありません。この人の心に近づくために、目を閉じて、自分が道ばたに座り込んでいると想像してみましょう。様々な音が聞こえ、様々な気配を感じます。道をあるく牛馬のいななき。子供たちがあたりを駆け回る足音。店の前に立ち止まる人々のとりとめもない会話。盲人はその様々な音をすべて拾い集める中で、どの方向に向かって作り笑いを浮かべたらよいのかを探ります。たとえ目の前に立っているのが、自分を人間としてではなく、罪の原因についての議論の材料としか見ない人々であっても、瞼の開かない顔を向けて、作り笑いを浮かべながら、施しを待つ。耳は何も聞き逃すまいとそばだてながら、しかし心はかたくなに閉ざす。どんなにひどいことを言われているとわかっても、心は殺す。そうしなければ生きていけない。それがこの人の、闇に閉ざされた心の姿です。
弟子たちにとっては罪とは何かという材料に過ぎない盲人を、イエス様はあわれみをもって人として見つめておられました。この人の心に、何とかして光を届けたいと願っておられました。だからこそ、ことばではなく泥が必要だったのです。確かに、イエス様のみことばはどんな人をもいやします。しかし心を殺し、どんなことばも、聞いてはいても決して受け入れないならば、ことばの前にまず行動が必要です。今日の説教題はそのために主イエスがなされたことを表しています。「造り、触り、きよめる」。そのひとつ一つを見ていきましょう。
第一に、神は造ります。何を造るのでしょうか。目を再び造られたのです。「生まれつきの盲人」ということばは、この人にとって厳しい現実を意味しています。病気で目の光を失ったのであれば、いやしを求めるでしょう。しかし彼には生まれた時から目がありません。いつか見えるようになるよ、と誰かが言ったとしても、それは気休めにもならないのです。イエス様は彼に必要なものをご存じでした。その第一が、再び神の御手によって目が造られるということです。旧約聖書の創世記には、神が土くれから人のからだを造ったという記事があります。イエス様は、つばきをして土をこねて、泥を作りました。その泥を瞼に塗られたのは、再び土くれから目を造られるということです。それを信じるか否かは重要ではありません。必要な主語は、この盲人ではなく神であるイエス・キリストです。神が土をこねて、失われた、いや、はじめからなかった二つの目を造り上げたのです。
第二に、神は触られます。イエス様は多くの場合、周りの人々や弟子たちをみわざのために用いられます。水をぶどう酒に変える奇跡では、手伝いの者たちを用いました。五千人にパンを与えた奇跡では、弟子たちにパンを配らせました。しかしここでは、イエス様はすべてご自分の御手によって行われています。泥をこねて瞼に塗るという簡単なことだから、弟子たちの手をわずらわせなかったのでしょうか。しかし罪に対する弟子たちの誤解からこの出来事が始まっているのならば、なおさら弟子たちを用いるべきではないでしょうか。イエス様が自ら泥を瞼に塗られた理由は、イエス様自身が瞼に触るためです。他の者ではだめなのです。人間にいじめられてきた子犬のように、この盲人の心は傷だらけでした。そこに優しく触れることができるのは、人ではなく神だけです。人は罪の塊としか見ようとしなかった彼を、神はかけがえのない魂として見つめている。今日初めてではなく、彼がこの世界に生まれたときから、いや、聖書によれば、この世界の基が造られる前から、神は彼の魂を見つめ、救いへと定めておられたのです。
第三に、神はきよめます。浅草寺に行く人が線香の煙に力があると信じるように、もし泥に力があるのなら、泥を塗られた瞬間に彼の目は開くはずです。しかし泥には何の力もない。ただ泥には意味があります。それは、泥は泥でも神が造られ、塗ってくださった泥だということです。人々は彼の目が見えないのは罪のためだと考えていました。彼自身もそれに影響され、自分の開かない瞼を汚れたものとして見ていたことでしょう。しかしキリストは瞼についた泥を洗い流すように言われました。洗い流すのはきよくするためです。そして洗い流されるのは瞼ではなく泥です。彼自身でさえ汚れたものとして触ろうとしなかった瞼を、イエスは決してそうじゃないと言われているのです。あなたの瞼はきよいもの。きよいからこそこびりついた泥を洗い流すのだ。私たちが自分のからだをどのように汚れたものとして見ていたとしても、神はそれをきよいものと宣言されます。汚れているのはからだではなく心です。そしてその心に神のことばが入ってくるとき、その心もまたきよくされます。
神は造り、触り、きよめます。この三つのみわざを考えるとき、私たちは一つのことに気づかないでしょうか。それは、それぞれが三位一体の神のみわざを表しているということです。父なる神の創造のみわざ、子なる神の愛のみわざ、そして聖霊なる神の、聖なるきよめのみわざが、じつはこのイエス様の三つのみわざに表されています。それが何を意味するのか。「神のわざは、今すでに現れた」ということなのです。かつて私は、この「神のわざが現れるためです」という言葉で救われました。障がい者としての劣等感に苦しんでいた中学、浪人、高校生の時代、これからの人生に何の希望も持つことができなかった。その時、「神のわざが現れるためです」ということばに出会いました。私を通して、いつか人々が驚くようなことが起きると神が約束しているのだと思いました。しかし今はそうは思ってはいません。神のわざはすでに現れたのです。この盲人が、目が開かれて大胆な証し人になることが神のわざそのものではなく、この人の瞼に泥が塗られたその時、まだ彼がシロアムの池に向かう前に、すでに神のわざは現れていたのです。
「神のわざ」を遠い将来の出来事として受けとめがちな、かつての私のようなクリスチャンが多くいます。パスカル・ズィヴィーというカウンセラーは、そんな人々が心に留めるべきこととして、こう語りかけています。
・信者が大きな教会を建てることができなくても、神さまはその人を愛しておられること。
・信者が礼拝に出るために綺麗な洋服を着ることができなくても、神さまはその人を愛しておられること。
・信者にどのような社会的背景があったとしても、神様はその人を愛しておられること。
・信者の子どもが有名な小学校や中学校、高校や大学に進学できなくても、神さまはその人を愛しておられること。
・信者が教会のために多額の献金ができなくても、神さまはその人を愛しておられること。
・信者が学校や大学の教育を受けられなかったとしても、神さまはその人を愛しておられること。
・信者が教会の奉仕のために多くの時間を費やせなくても、神さまはその人を愛しておられること。
・信者が無職であっても、神さまはその人を愛しておられること。
・信者が障がいを抱えていても、神さまはその人を愛しておられること。
(パスカル・ズィヴィー『“「信仰」という名の虐待”からの回復』、いのちのことば社、2008年)
謙遜ではなく、たとえ私たちが何一つ神さまの役に立つことができない者であるとしても、そんなことは一切関係なく、神のわざはすでに現れています。私たちが従ったときに神のわざが起こるのではありません。すでに三位一体の神が主語となって、神のわざをあなたの上に表してくださっているのです。「いつか私も」という期待をもって立ち上がる者ではなく、「すでに私は」という感謝をもって立ち上がる者となりましょう。そのとき、私たちの目の前にシロアム、すなわち「遣わされた者」という喜びが現れるのです。