聖書箇所 エゼキエル書22章23-31節
23 次のような【主】のことばが私にあった。24 「人の子よ。この町に言え。おまえは憤りの日にきよめられず、雨も降らない地である。25 そこには預言者たちの陰謀がある。彼らは、獲物を引き裂きながらほえたける雄獅子のように人々を食い、富と宝を奪い取り、その町にやもめの数をふやした。26 その祭司たちは、わたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚し、聖なるものと俗なるものとを区別せず、汚れたものときよいものとの違いを教えなかった。また、彼らはわたしの安息日をないがしろにした。こうして、わたしは彼らの間で汚されている。27 その町の首長たちは、獲物を引き裂いている狼のように血を流し、人々を殺して自分の利得をむさぼっている。28 その町の預言者たちは、むなしい幻を見、まやかしの占いをして、しっくいで上塗りをし、【主】が語られないのに『神である主がこう仰せられる』と言っている。29 一般の人々も、しいたげを行い、物をかすめ、乏しい者や貧しい者を苦しめ、不法にも在留異国人をしいたげた。30 わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。31 それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを絶滅し、彼らの頭上に彼らの行いを返した。─神である主の御告げ─」
今日は「破れ口に立つ教会」というタイトルで説教させていただきますが、これは今年の教会の目標聖句として総会資料に書かせていただくものです。まず聖書箇所から「破れ口」について語りましょう。破れ口とは、町を取り囲む城壁に空いた穴のことです。それは落ちたら命がないほどの高い所にあります。そこに辿り着くまでに幾多の危険を冒さなければならないような所にあります。業者を呼んですぐに直せるような穴ではなく、いのちを落とすことを覚悟してでも、それでも真っ先に直さなければならないのが「破れ口」です。なぜならその穴の場所が敵に知られれば、敵は必ずそこを狙ってくる。どんなに高く城壁を築いても、穴が狙われたらひとたまりもありません。破れ口はどんな犠牲を払ってでも直さなければならないもの、しかしエゼキエル書では何と言われているでしょうか。神さまはため息をもらします。「わたしはこの国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった」。
誰も直そうとしない。誰も目を向けようとしない。エルサレムに住まう誰もが、「安全だ、安全だ」とばかり言っていました。神が私たちを守ってくださる。私たちは選ばれた民なのだから、と。しかし彼らは大きな思い違いをしていました。エルサレムを滅ぼすのは他の国々ではない。神ご自身なのだ。30節で神はこう言われます。「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは破れ口を修理する者を捜し求めた」。ある意味、矛盾する言葉であるかもしれません。この国を滅ぼすお方が、この国の穴を修理する者たちを捜し求めるとは。しかし決して矛盾ではないのです。敬和学園高校が太夫浜にできたとき、創立者である故太田俊雄先生はこのように祈ったそうです。「もしこの学校が、神の聖名を汚し、神の聖旨にそむいて、〈右や左に曲る〉ようなことがあったら、どうか聖名の栄光のために、学園をつぶしてください」と。神の民、そして教会が神のみこころからそれていくならば、最後には神ご自身が彼らを滅ぼされます。
しかしエルサレムの現実はどうだったでしょうか。預言者たちは口当たりのよい約束を語るばかりで、破れ口を修理するどころかしっくいで上塗りをして、問題を隠すだけであった。祭司は、霊的な破れ口がぽっかり開いていることを語らなければならないのに、きよさを教えることもなく、あまつさえ自分自身が安息日を守らなかった。王や首長たちは民のことなどに目をとめず、自分の利得をむさぼった。そして一般の民たちも、不法に在留異国人をしいたげ、乏しい者、貧しい者を苦しめた。すべての者が破れ口を見ようとしない。一人としてそれを修理しようとする者がいない。
昨年、私たち豊栄キリスト教会は設立40年の節目の年を迎えました。教会の内外に「破れ口」と呼ぶべきものが開いていることにも、私たちは目を向けなければなりません。教会は、開拓伝道の賜物を豊かに与えられた牧師夫妻によって30年間、導かれてきました。きちんと残された教会総会や役員会の議事録、週報や月報、それらはこの教会がまことに祝福された群れであったことをうかがわせます。しかし教会はいつのまにか変質してしまったのです。当初の救霊の情熱が、保身への努力にすり替わりました。みことばを忠実に語り、聞いてきたのに、律法主義がいつのまにか生活を支配するようになりました。神が与えてくださった自由を忘れ、信仰生活が束縛と不安に変わってしまったのです。共に救いを喜び合ったはずの人々が交わりにつまずき、教会を離れていきました。これは決して個人攻撃ではありません。攻撃しているとすれば、それは不都合な過去を忘れようとする私たち自身の心に対してです。できれば覆い隠したい事実は、いったい誰が語り伝えることができるのでしょうか。それは、経験した者が悔い改めをもって書き表すこと以外にはできないのです。
私たちの破れ口はどこにありますか。それに手をつけることなく、この教会には夢がある、希望があるなどともし私が叫んだとしても、それはまさにここに書かれている預言者たちと同じでしかない。礼拝出席人数は少しずつ増えてきました。求道者も定着し、主にある家族として交わりをいただいています。子供たちの声が聞こえるようになり、たとえそれがメッセージ中であっても、そこに子供たちがいるという事実そのものは嬉しいものです。でも過去は乗り越えました、とふたをするのであれば、それは修理ではなく上塗りでしかないのでしょう。過去に目を向けてこそ、別帳会員や長期欠席会員の復帰が今過去から現在へと繋がっている課題として、初めて真剣に受けとめられるのだと思います。
私はこの豊栄に着任して以来、別帳会員の回復というものをライフワークとして考えてきました。何人洗礼を受けたかとかどれだけ教会が増えたかということよりも、御座から離れている羊たちがどれだけいるかということを見つめるべきだと考えてきました。確かに一人の人が救われるのはすばらしい奇跡です。一つの教会が生まれることも恵みでしょう。
しかし一度教会から離れていったクリスチャンがもう一度教会に戻ってくる方が、求道者が信仰決心するよりもはるかに困難なことなのです。彼らはすでに救いを体験しています。そして救いとはこの程度のものなのだと納得してしまっている。彼らは、霊的には救いを踏みつけてしまっている人々です。その彼らを回復するためにはどうすればよいか。祈りしかないのです。人間的な信頼関係とかではなく、彼らが心砕かれて、悔い改めてもう一度御座に近づくためには、祈りしかあり得ない。
そして祈りこそが、この教会の奥底にぽっかり空いた破れ口を修理する手段だとすれば、祈る者たちもまた心砕かれなければなりません。なぜなら、彼らを取り戻そうとする「バルナバの祈り」を妨げるものは私たちの中にある高慢だからです。すでに去った人々がいなくても教会はやっていける。そんなことに力を注ぐよりももっと伝道のほうが大切でしょう。しかし今恵みから離れている限られた人々のためにさえ祈ることができない人たちが、どうして救いを必要としている99%の人々のために祈ることができるでしょうか。破れ口は教会から離れた所に空いた穴ではなく、教会そのものに空いた穴です。その穴を修理する者たちを神は捜し求めておられます。
最後に、今、現実の問題として、体力的な問題、また霊的な課題のゆえに礼拝と交わりに参加することが困難になっている信徒が新しく生まれてきていることを私たちは忘れてはなりません。それらの兄姉に対して、私たちはこれからも祈り続けていきましょう。そして祈りに加えて、壮年・婦人・青年といった部会、地域群、家庭集会で培った交わりなどを通してお互いにフォローしていこうではありませんか。別帳会員は多くの場合、こちらからのコンタクトを拒絶します。だからこそ祈りしかできないのです。しかし長期欠席者はコンタクトを求めています。祈りと共に、行動が何よりの力となります。
今年の教団総会で機構改革が最終的に決議されれば、すべての教会は教会規則の制定が必要とされます。私たちもそれを見越して、この教会総会で、豊栄教会の教会規則を制定する予定です。教団の提案に基づき、「現住陪餐会員」の要件を「年一回以上、聖餐にあずかる」こととします。しかしこれは決して切り捨てではありません。病気や課題を抱えている教会員をおぼえ、彼ら彼女らを聖餐へと招いていくことがすべての信徒の果たすべき使命であることの再確認です。牧師、役員、バルナバ委員の働きは重要ですが、それ以上に大切なのは、すべての信徒があわれみと関心をもってお互いに励まし合っていくことです。礼拝、祈祷会、家庭集会などの交わりから遠のいている兄姉たちを、自分の関わるべきたましいとして、関わりをもっていきましょう。それが「破れ口に立つ教会」のあるべき姿なのですから。