聖書箇所 ゼカリヤ書4章1-7節
1 私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。
2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」4 さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」5 私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せられる。7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」
序:
この教会で奉仕をさせて頂いてから、もう2年が過ぎようとしています。この2年間は一生忘れられない恵みの時であり、ここに導いてくださった主と、こうして温かく迎えてくださった皆さんに心から感謝しています。
この教会で私はたくさんのことを学ばせていただきましたが、中でも、主にあって喜んで仕えておられる皆さんの姿を通して、献身ということの意味を深く考えさせられました。
神様にあって生きる者、信仰者にとって一番大切なことは、神と共にあることではないでしょうか。私たちはしばしば、ぶどうの木の枝に例えられます。ぶどうの枝にとって幹につながっていることが、いのちの根源であり、枝が幹から離れては実を結ぶことができません。
花の中でもひときわ美しいとされるバラの花は、接ぎ木のできる花のひとつです。接ぎ木の目的とは何でしょうか。
野生のバラの花は美しくないかもしれませんが、生命力がとても強く、やせた大地でも逞しく生きることができます。一方温室のバラは美しく奇麗な花を咲かせますが、病気に弱く、虫がつきやすく、手入れが大変です。その温室のバラを野生種のバラに接ぎ木すると、その野生種のバラから、生命力溢れる樹液が流れ込んできて、美しい上に、強い性質のバラができる。
私たちはこの温室に咲く弱いバラです。そのままでは病気になり、虫にもすぐに食べられてしまいます。イエス様という幹からの溢れるいのちの樹液を注がれてこそ、生命力に溢れた信仰生活と、それに伴う豊かな実を結ぶことができるのです。
本:
1)、背景
今日の聖書箇所は、あまり馴染みがない箇所かもしれませんが、旧約聖書の小預言書の一つ、ゼカリヤ書、第4章1〜7節のみことばです。
ソロモンの建てた神殿は、神の民の度重なる不信仰によって、紀元前586年、バビロン帝国によって滅ぼされ、民はバビロンへ連行されました。しかしその70年後、神は再び、ご自分の民を故郷エルサレムに帰らせ、神殿の再建を命じられます。その時に主によって立てられた二人の指導者が、祭司ヨシュアと総督ゼルバベルでした。しかし工事は、敵対者たちによって妨害され、15年間もの間、工事の中断を余儀なくされます。神様によって立てられた二人の指導者は、その危機的状況の中で、肝心の指導力を発揮できず、民は、次第に神殿再建の熱意を失い、神殿が完成すること疑い始めました。そのような状況下にハガイとゼカリヤという2人の預言者が、神様から遣わされ、祭司ヨシュアと総督ゼルバベルにみことばを与え、励まし、工事を再会させるのです。
2)、金の燭台
1〜5節、
ゼカリヤは8つの幻を見ますが、これは5番目の幻、「金の燭台」のまぼろしです。
「金でできている一つの燭台」は、“神の民”を指します。広い意味では“教会”を指すという解釈もあります。燭台には本来、暗闇を照らす目的、使命があります。金は不純物が取り除かれた状態、つまり聖さを表します。神様にとって神の民は、純金のように、美しく、高価で尊いという存在であると言えるでしょう。
上部には鉢があり、その鉢の上には「七つのともしび皿」に「七つの管」がそれぞれについています。聖書の数の7は完全数を表し、その倍数なので、これ以上ない完全さを表します。「七つの管」に灯心がそれぞれについている。つまり49個分の明かりが灯るので非常に明るくなるという意味です。
さらに、「二本のオリーブの木」がその鉢の左右についています。オリーブ木から採れるオリーブ油が直接、その鉢に注がれ、それによって絶えず火を点すことが可能となります。
神の民は、聖く、全き者、神に愛された存在として、この暗闇の世界に対し、燭台の役目を果たしていくようにと召されています。そしてこの世に光を放つためには、私たち一人一人が、通り良き管となって、つきない油である、聖霊の力を絶えず受け続けなければならないことを、この幻は示しています。
3)、6~7節 二つの道、(広い道)
私たちは神様を信じて救われ、それでそく、天国に行けるかといったら、そうではありません。私たちは地上での生涯を、もういいよと言われるまで、歩まなくてはなりません。そこには2つの道が用意されています。一つは広い道、もう一つが狭い道です。私たちは絶えず、このどちらかを選択しなくてはなりません。広い道は、分かりやすく、見つけやすい道なので、自分の力で楽に歩み出せます。一方の狭い道は、見つけにくく、自分一人の力では歩むのが困難な道です。これが6節の、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」歩む道です。困難な中にも、聖霊と共に歩む道、神様の用意された祝福の道です。
しかし私たちの多くが、自分では狭い道を歩んでいると思っていても、実は広い道を選んでしまっていることがあります。とりわけ目の前に立ちはだかる壁に直面するとき、自分で考えた安全と思える道、楽な方、広い道を選ぶのです。
証
ちょうど3年前、私は、新潟聖書学院に入学しました。神様から受けた直接献身の道でしたが、心から喜んで従ったかというと、実はそうではありませんでした。「何で、私なんだろう」「私には無理、できっこない」という思いを消し去ることができませんでした。“4年間の神学科での学び”という召しを受けていましたが、結局、自信のなさから、神学科4年コースではなく、聖書科1年コースを選択し、いつでも引き返せる安全な道を選びました。
当時の私からしてみれば、神学校に入ったこと自体が“神様に精一杯従った”、“献身した”という意味だったのですが、それが私にとってどんなに中途半端で危険な過ちであったかを、数々の試練を通される中で、徐々に気づかせて頂きました。
ご存知のように、私は母子家庭で、養育費とかも一切もらっていませんでしたから、当然貯金はゼロ。学びと仕事の両立は難しいということで、全面的に神様に委ねるほかありませんでした。みこころなら必要は備えられるはず…との信仰のみでスタートしましたが、一年目は非常に厳しく、いつもギリギリのところでかろうじて与えられる…そんな状態が長く続きました。
また、その時まで病気らしい病気をしたことのないレナが、二度も救急車で運ばれる経験をしました。突然の腹痛や頭痛、夜中中吐きまくり、苦しみ泣き叫ぶ我が子を前に、いったい何が起こっているのか…動揺のあまり呆然と立ちつくし、この時ばかりは神への不信と怒りだけがこみ上げてきました。
極めつけは、退院後、帰ってくるなり、実家の母から「父が交通事故に遭い、病院に運ばれた」との連絡が入たことや、それが一段落すると、次はこれこれの病気で手術することになったという知らせを度々受けたりもしました。
なぜ、どうして、こう次から次へと問題が起こってくるのか、私だけがどうしてこんな目にあうのだろう。「神様、もう疲れました。あなたが行けとおっしゃったから従ったのに、どうしてこうなるのですか。この試練にはいったい何の意味があるのですか。訓練なのはわかります。でもみこころがわかりません。」
私の召命のみことばは、マルコ8章、34、35節のみことばです。「だれでもわたしのついて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思うものはそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失うものはそれを救うのです。」
ある日、神様のお取り扱いを受け続ける中で、自分を捨てる事の本当の意味と、主についていくとはどういうことか…、何のために召されたのか…。もう一度よく考えよと、このゼカリヤ書のみことばが示されたのです。
二本のオリーブの木に象徴される二人の指導者、ヨシュアとゼルバベル。神によって選ばれた2人は、本来聖霊の助けを受けて、この世の暗闇の勢力と戦って勝利するはずでした。が現実は、神殿再建という大事業を前に、幾多の困難が待ち受けていた。 そして彼らは敵の妨害や、物資の不足、中傷、貧困等の敵の策略に翻弄されて、肝心な指導力を発揮できずに挫折し、15年もの間、成す術もなく立ちすくみました。
神様から任命されて、その働きに従事するという時、なぜか逆風が吹いてくる、神様からのものなら祝福されるべきではないのか。それなのに何故、問題が起こるのか、信じて、祈ったのに…どうして…と。
何のために召されたかではなく、何でこうなってしまうのか…との現実にばかり気を取られる時、神様よりも、自分の考え、感覚、意思を優先させてしまう。「神様は私を見放されたのだろうか…」と、不信、疑い、不安や恐れ、絶望に心は支配され…ついには、不本意にも手近なものに救いを求めます。人からの助け、自分の考えや経験に基づくこの世の知恵など、神以外のものに安易に頼ってしまう。本末転倒とはこのことです。自分を含め、見えることにのみ目を向けたら、私たちは落ち込んで当たり前です。そう、これが広い道を選んだ時の私たちの霊的状態です。
4)、狭い道
神殿再建は、もとを正せば、神の霊によって始められた神の働きです。神の手による働きであって、人の手によって成し遂げられるような簡単なものではありません。私たちクリスチャンの働きもこれと同じことが言えます。私たち一人一人は神の国の働きをするようにと召されています。ビジネスマンの仕事も、経営者も、教師の仕事も、主婦の働きも、職種を問わず、私たちクリスチャンは、神様の栄光を表すために、それらの働きをします。それは広い意味での伝道、宣教の働きをしているわけです。ではそこに困難はないのか。つまづきはないのかといったら、そんなことはありません。必ず問題は起こるでしょう。イエス様も「世にあってあなたがたは患難があります」と言われました。この世にあって主の働きをする時、患難はあるのです。ですから、患難に会って打ちひしがれるのが悪いこと、信仰のないことだと、自分を責めるのは間違いです。クリスチャンは落ち込んでもいいのです。むしろそれが信仰者として正常な姿です。
ただし、その先が大事です。ここに信仰を働かせます。祈ってすぐに答えが与えられることもありますが、それは稀だからです。信仰には神様の時を待つことが求められます。「わたしの時はまだきていません」といわれるお方に信頼して、そのことが必ずくると確信して待つ。それは決してやさしいことではありません。その間には、私のように神様から見放されたような気がしたり、神様を疑ってしまうという罪責観のために自制できなくなり、自分の考えを優先させてしまいやすいのです。
しかし聖書は言っています。「あなたがたが、神のみこころを行って約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」と。ただ忍耐して神を待ち望む。信頼してじっと待つことが大事なのです。
ヨシュアとゼルバベルも、そしてこの私自身、忍耐して、信頼して与えられた主の召命を堅く信じ、与えられた使命が自分の力でやることでなく、主の働きであるとして、主を待ち臨むべきだったのです。これが狭い道を選ぶということです。
目の前に立ちはだかる困難な山。越えられない、先が見えない、自分の力では、到底動かすことのできない大きな山…。私たちクリスチャンには、その山に向かって「お前は何ものだ!」と一掃してくださるお方がおられます。この天地万物を造り、この世の全てを統べ納めておられるお方が。そのお方の霊が、私たちの内に今日も明日も絶えず注がれているのです。このお方を見上げることをしないなら、その管は詰まってしまい、天からの力は流れてきません。
興味深いことに、山が上を見上げる機会を私たちに与えてくれるように、困難や問題は私たちを神へと向かわせてくれるものなのです。上を見上げなければ、のっぺりとした黒々とした部分しか見えませんが、上を見上げれば、山よりはるか高いところにおられる栄光に輝く主が見えてきます。キリスト者にとって、患難さえも喜べること、これ以上の恵みはありません。そして患難の先には必ず祝福があります。
ゼルバベルとは、私たちのことです。さあ、主のために働こう、でも目の前に山がある…。皆さんにとっての「山」とは何ですか。古い自我でしょうか、離れられない習慣でしょうか、未信者の家族でしょうか、家庭問題、仕事の重圧、人間関係、金銭問題、病気、信仰の低迷、劣等感、臆病、それとも孤独でしょうか。それらの前に立ちすくみ、苦しんでおられないでしょうか? 私には到底乗り越えられないと自分を見て思い悩んでいませんか。挫折してもいいです。落ち込んでもいいです。でもその低いところから、ぐっと上を見上げてみてください。すると、「あーこの働きは私のものではない、聖霊が成し遂げてくださる神の働きなのだ。」と気付くはずです。自分でやろうとするからできない…となるのであって、助けてくださる聖霊に委ねていく。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊、聖霊によって」戦え!と言ってくださる主を見上げましょう。主はいつでも私たちを助けたいと思っておられるのです。
かしら石が積まれる時、神殿が完成するように、聖霊の宮である私たちクリスチャンも、その完成をめざして、この暗闇の世界に絶えず光を放ち、主の溢れるばかりのいのちの恵みを、喜びながら伝えるものとさせていただこうではありませんか。主よ、私にはできませんが、主が成してください。そのために私は何をすればよいでしょうか、と主のために自分を捧げて仕える者に、主は豊かに報いてくださるはずです。
お祈りします。
結:
『「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主は仰せられる。大いなる山よ。お前は何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は「恵みあれ。恵みあれ」と叫びながら、かしら石を運び出そう』
天の父なる神様、尊い主の御名を誉め称えます。
私達の限られた理解力では分からないこと、不思議なことがあって当然です。
「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい」と言われたのなら、ただ「はい主よ」と与えられたみことばだけを信じて従うべきです。目の前に立ちはだかる山が、とてつもなく大きく、思わず心に恐れがわき起こったとしても、神様の働きであることに目を留めて、忍耐してあなたをただ待ち望む。自分で選ぶ道ではなく、困難な道でも聖霊と共に歩む道を選ぶこと。それが自分を捨てるということ。あなたに従うという真の献身の意味でした。
悔い改めてあなたの道に立ち返る時、私たちの目の前にある山は、次々に消え去り、私たちの目の前で、地は平らとなります。どんな緊急事態が起ころうとも、あなたに立ち返るより大事な緊急事態はありません。
ゼカリヤの眠った目を覚まされたように、絶えず私たちの眠っている目を覚まし、行くべき道を示してください。金の燭台である私たちに、どうか御霊の油を豊かに降り注ぎ、この心を御霊の与える喜びで絶えず満たしてください。
今週も「恵みあれ、これに恵みあれと」喜び叫びながら、主の働きをする者となれますように。
このお祈りを主の御名によって祈ります。