聖書箇所 マタイの福音書26章20-25節
20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。23 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。
先日、敬和学園高校の卒業式があり、関係者のひとりとして出席してきました。校長先生が壇上でひとり一人に卒業証書を手渡していきます。ただ渡すのではなく一言二言、言葉をかけて手渡していくのですね。「敬和大学でもアーチェリーがんばれ」とか「調理師免許とれたらいいな」とか具体的な励ましをいただきながら卒業証書を受け取っていく彼らは本当に晴れがましく見えます。その後、卒業生代表のAくんの答辞がありました。彼はまず「私は、自分を変えたいと思って敬和に来ました」と切り出しました。自分を変えるために、勉強をがんばり、部活をがんばり、学園祭では総合チーフを務めた。そこまではどの高校の卒業式でもよく聞く話です。しかしなぜそこまでがんばろうとしたのか。彼は答辞の終盤で数秒間声を詰まらせて、こう語りました。「それは父親との確執だった。子どもの頃から、何度も父親に手を挙げられたことがあった。自分がなぜ生まれてきたのかわからなかった。父を憎み、自分も生きていても仕方がない、と思っていた。しかし敬和に来た時、ある先生が自分にこう言ってくれた。あなたは私の子どもだ、生まれてきてくれてありがとう、敬和に来てくれてありがとう、と。自分は敬和で変わった。敬和だから変われた」。公の場でここまで語ることのできる勇気に私は敬服しました。同時に、これがまさに敬和の卒業式だと思わされたものです。
「生まれてきてくれてありがとう」。生まれたばかりの赤ん坊を優しく見つめながら、父母は心の中でそう語りかけることでしょう。「生まれてきてくれてありがとう」。それが敬和学園高校が45年間続けて来た教育方針でもあります。そして神さまも私たちひとり一人にこう語りかけてくださっています。「生まれてきてくれてありがとう」と。しかし今日私たちがイエス様の言葉から受ける印象は逆であるかもしれません。イエス・キリストを裏切り、銀貨30枚で売り渡す約束をしていた弟子、イスカリオテ・ユダについて、イエス様はこう語ります。24節、「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去っていきます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」。
とても冷たく、突き放した言葉のように思えます。しかし本当にそうでしょうか。もしあなたがイエス・キリストの立場であったならば、こう言ったかもしれません。「ユダ、おまえはわざわいだ。ユダ、おまえなんか生まれないほうがよかったのだ」と。しかしイエスはユダという名前を一言も出さないのです。裏切る本人を前にしながら、まるで別人のことを語っているように。これは何を意味しているのでしょうか。イエス・キリストはユダを見離しておられなかったということです。見離したのはむしろユダのほうでした。イエスは、たとえ裏切りが神の計画の中にあったことだったとしても、それでもユダが心から己の罪を悔い改めることを願っておられました。しかしユダの心には届かなかったのです。ユダの心は変わらなかったのです。ユダは厚かましくも、こう聞きました。「先生。まさか私のことではないでしょう」。このとき、イエス様の表情はおそらく、いや、間違いなく、世界で一番打ちのめされた者として顔をゆがめたことでしょう。自分の罪に目をとめようとしないユダに対し、イエス様は悲しみをたたえながらこう告げるしかありませんでした。「いや、そうだ」と。
今日の聖書箇所には、裏切ったユダだけではなく、他の11人の弟子の姿もこのように書かれています。21、22節をお読みします。
「みなが食事をしているとき、イエスは言われた。まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。これはどういうことでしょうか。裏切りというのは、文字通り裏切りです。事故や過失ではありません。明確な悪意をもってそれまでの信頼関係を踏みにじることです。それなのに、弟子たちがかわるがわる「まさか私のことではないでしょう」と聞くとは。
彼らには自信がなかったのです。自分がいつまでイエス様に従っていけるのか。少なくとも彼らは知っていました。自分が何があろうともイエスを見捨てない、そんな自信にあふれた者ではないことを。まことに私たちは、罪人です。正しいことがわかっていても、それができません。悪いことが何かわかっていても、それに引き寄せられていく弱さを持っています。しかしだからこそ、イエス・キリストは十字架にかからなければならなかったのです。キリストが十字架にかかられた、つまり十字架で処刑されたのは、ご自分の罪のためではありませんでした。何の罪も見いだされない方であったのに、ご自分から十字架に向かっていかれたのです。それは、私たちすべての人間の罪の身代わりとなるためでした。不安におびえる弟子たちのために、イエスは死なれました。自分がどれほど大きな愛に包まれているか考えることなく、罪を見つめようとしないユダのためにも、イエスは死なれました。そして私たちのために。イエスの十字架が自分のためなのだということを心の中では受け入れたいと願いながら、イエスを救い主として告白することができない、私たちひとり一人のために死んでくださいました。
今から200年近く昔ですが、アメリカのある小さな町の牧師夫妻に男の子が生まれ、スティーブという名前をつけられました。彼は両親の愛情を受けて育ちましたが、10代半ばで父を失い、その後は母の祈りもむなしく、酒や賭博に明け暮れるようになりました。そんな生活が何年も続いたある日、昼間から不良仲間と酒場に行く途中で、彼はある教会が目に止まりました。いつもなら気にしないのですが、なぜかその日だけはここに入らなければという思いが心に迫りました。しかし一人では心細いので、一緒にいた仲間を誘いました。いやだよ、教会なんて。だって俺たち酒場に行くんだろ。そんなに教会に入りたいんだったら、お前だけ行けばいいじゃないか。押し問答を重ねたあげく、スティーブは仲間と喧嘩別れして、教会の門をくぐりました。数十年後、ある刑務所の独房でひとりの男が泣き叫んでいました。驚いた看守が理由を尋ねると、彼は新聞記事を投げてよこしました。そこにはこのような見出しがありました。「スティーブ・クリーブランド、第22代アメリカ大統領に選出さる」。男は言いました。「俺は若い頃、こいつとつるんで遊んでいたことがあった。ある日、こいつに教会に誘われたが俺は断り、あいつは教会へ行った。もしあの時俺が一緒に教会に行っていれば、あいつのように人生が変わっていたのかもしれないのに」。
人生は決断の連続です。その中には大して重要でない決断もあれば、その後の人生を左右する大切な決断もあります。クリーブランドはその決断の機会を見逃しませんでした。ユダはこの最後の晩餐の時、すでに裏切りを決断していました。しかしイエス様は、ユダにもっと大きな決断の機会を与えます。彼を永遠の滅びから助け出すために。裏切者の名はユダであるとはっきり名前を出さなかったのは、彼のかたくなな心を少しでも開くためでしょう。ご自身のすぐ左側にユダを座らせたのは、イエス様と顔と顔を合わせてユダが自分の罪を示されるためであったかもしれません。イエス様は、あらゆる手立てを尽くして、氷のようにかたくななユダの心を溶かそうとされました。最後の最後まであきらめず、ユダに悔い改めの機会を与えておられたのです。
そして今日も、たくさんのユダが闇路を滅びに向かって走っています。自分を造ってくださった神を嘲り、拒み、わたしには救いなど必要ないとせせら笑う人々がいる。神の恵みなければ存在すら許されないことを忘れ、神の愛に背を向け、内なる聖霊の声に耳をふさぎ、あるいは聞こえないふりをし、偶像の命じるままに、永遠の奈落のがけに向かってひた走る者たちがいます。私はそんな人間ではない。そう考える人もいるでしょう。しかしそうであれば、なおさら今日与えられている決断の機会を大切にしていただきたいと思います。キリストを拒み、今よみの滅びの中にとらわれているたましいは、今日あなたが与えられている救いの機会をどれだけ求めていることでしょうか。しかし死してしまえば、もう救いの機会は閉ざされてしまうのです。主の前に決断をすることのできるこの時に、自分が罪人であることを認め、私のためにキリストが死んでくださったと告白しなければなりません。そして自分のためにではなく、ただキリストのために生きると決意するときに、私たちの人生はまったく変わっていくのです。