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2013.3.17「十字架の裏側を見よ」

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説教に先立ち、信徒の証しがありました。



聖書箇所 ルカの福音書22章24-34節
 24 また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。25 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。26 だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。27 食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。28 けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。29 わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。30 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
 31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

 今日は、教会員の山ア敬典兄に闘病の証しをしていただきました。兄弟を通して働いてくださった神さまの御名を崇めます。しかしその証しは闘病記というよりは病を通してじつに多くの恵みを得たという告白にあふれています。ある方は「闘病」ではなく「問う病」(この「トウ」は「問いかける」という漢字です)と呼ぶべきだと言います。兄弟のご家族は、最初の手術が成功に終わったはずなのに、どうしてまだ不調が続くのだろうと不安に思ったでしょう。どうして?どうして?ご家族にとって、まさに「問う病」です。しかし兄弟本人は、その中にあっても平安があった。神が必ず私を守り、導いてくださると。それもまた「問う病」です。ただし問いかけた相手は自分です。ちょうど詩篇103篇のように。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」。この病を通して、神様もまた兄弟のたましいに問いかけました。「それでもあなたはわたしに従うか」。彼はその問いかけに強く頷いたと信じます。そして私は病に限定して語ってきましたが、人生のあらゆる問題−−それは厄介ごとのままで終わることは決してありません。その様々な問題を通して、私たちの心の内側にある隠れた思いがあぶり出されていきます。それが試練です。聖書は言います。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」(ヘブル12:7)。

 試練を通して、私たちは成長します。心に隠れたものがあぶり出され、より神に近づこうとする信仰へと導かれます。しかしもしそうだとすると、イエス様も試練を経験されたということはどう考えるべきでしょうか。28節、「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです」。主が経験された「さまざまの試練」。ある人は、荒野の誘惑を思い起こすでしょう。またある人は、この後のゲツセマネの祈りを連想するかもしれません。しかしそのどちらにも、弟子はおりません。主は一人で悪魔と立ち向かい、父なる神に絶叫しました。いったいここで主が言われる「さまざまの試練」とは何のことなのでしょうか。私はこう思います。さまざまの試練、それはイエスが弟子たちと共に歩まれた三年半の歩みの日々すべてを指しているのだ、と。その三年半の最後に待ち受けるものを、イエスもまた恐れ、怯え、その見えない格闘の中で父なる神から訓練された。それゆえに「試練」と呼んでいるのだ、と。そして三年半の最後に待ち受けるもの、それこそが十字架の苦しみであります。
 今の私の言葉につまずきをおぼえる方もいるかもしれません。イエスが恐れ、怯え、訓練された、だって?救い主、王の王、主の主であるキリストがなぜ恐れるのか。怯えるのか。訓練される必要があるのか。しかし私たちは、イエスが神でありながら人としてお生まれになったという事実を正しく理解しなければなりません。罪は決して犯されませんでしたが、人としてのあらゆる苦しみをなめられた方、それがイエス様なのです。三年半の公生涯どころか、飼い葉桶に寝かされたその時から十字架を背負っておられました。その人生の中で、一瞬たりとも十字架の重荷を忘れることができた日はなかったことでしょう。

 
 十字架とは何でしょうか。それは神が神のみ姿を捨てられることです。神の子であるイエスが、神からのろわれた者とされて木にかけられる、それが十字架です。イスラエルでは、重罪人を死刑にする場合、石で打ち殺すことが定められていました。しかし石打ちではなく木につるす処刑もありました。それは神にのろわれた者として地上から消し去られるという意味であったのです。
 十字架はもともとローマ帝国で考え出された処刑方法でした。手足を十字架に釘で打ちつけられた囚人は、全体重がその傷口にのしかかり、激しい苦痛に見舞われます。長い時間をかけてじわじわと苦しめて死に至らしめる、それがローマの十字架刑でした。しかしイエスが味わわれたのは肉体の苦痛よりもむしろ神にのろわれた者とされるという、神の子にとって耐え難い苦痛でした。
 私たちクリスチャンは三位一体の神を信じています。これは父・御子・御霊が永遠の初めから終わりまで常にひとつであるという信仰の奥義です。常に父なる神、聖霊なる神とひとつであったキリストが、その交わりから引き離され、のろわれた者となる、それがイエス様の十字架です。神が神でなくなるという事実に、イエス様が平然としておられたか。ためらわずにおられましょうか。
 その苦しみは決して人間にはわかりません。裏切ったユダを含む12人の弟子たちも同じです。イエスが抱えているものの大きさを考えることもなく、イエスを売り渡したユダをはじめ、彼らは主の苦しみがわかりません。この期におよんで、誰が一番えらいかなどと議論している人々です。しかしそれでもイエス様は、十字架に向かう3年半の歩みを共にしてくれたその弟子たちを決して忘れることはありません。決して見捨てることはありません。私たちもまた、たとえどのような者たちであったとしても主にとどまり続けるならば、やがて与えられる永遠の報いからもれることはないのです。

 イエス様にとって、十字架という試練は決して生やさしいものではありませんでした。七転八倒という言葉では足らない、自分の存在すべてがぐちゃりと握りつぶされそうなもがき。キリストはその十字架を常に見つめながら歩んでおられたのです。ある人はこう言うかもしれません。イエス様は力に満ちたお方であって、十字架の前に怯えることなどあり得ない。しかしもし十字架が、主が恐れることもないような生やさしいものだとすれば、だれも罪とそのさばきなんて恐れる必要はないでしょう。神の子がいのちをかけて死んでくださらなくても、罪を清算する手段などいくらでもあるはずです。でも、ないのです。私たちの罪のおぞましさを考えると、神が神でなくなる、神の子が神にのろわれた者となるというこの十字架以外には罪を清算する手段は存在しないのです。
 多くの人々は、十字架を見ても自分の罪に気づきません。人生の答えを求めて教会を訪れた人々であっても、会堂の十字架を見て心が洗われますね、と言います。しかしどんなに光輝く十字架であったとしても、裏側から眺めてご覧なさい。そこには私たちすべての人間が犯し続けるあらゆる罪がしみやかびのように浮かんでいます。庭の片隅にある石を持ち上げたときにその下からムカデやミミズ、ダンゴムシがうじゃうじゃと這いずり回るように、十字架の後ろにこびりついているのは私たちの罪です。いったいどうすればその罪のさばきから救われるのでしょうか。神の子でさえその前に恐れずにはいられなかった、十字架による贖い以外にはあり得ないのです。

 シモン・ペテロも十字架の裏側に気づかない大勢の一人でした。十字架をご自分への試練と受けとめ、その苦痛を知っておられるイエス様だからこそ、試練の中であなたの信仰がなくならないようにと必死に祈りました。しかし彼は答えます。たとえどんな試練が待ち受けていたとしても、私は決してあなたを捨てたりはしない、と。感動的な言葉です。しかし十字架の意味がわからない者は試練の意味もわかりません。シモンは、キリストの十字架が自分のためであることがわからなかった。そしてその十字架の裏側にこびりついている自分の罪が、己の浅はかな情熱や忠誠心など簡単にひざまずかせてしまうことにも気づいていなかった。しかし神のあわれみは尽きることがありません。試練がなくなるように、ではなく、あなたの信仰がなくならないようにイエス様は祈られました。試練の中でこそ、十字架の本当の意味に気づくのです。シモンも、そして私たちも。
 私たちが試練に会うのは、私たちを滅ぼすため、苦しめるためではなく、その先にある祝福をいただくためです。キリストもまた、ご自分に与えられた試練として十字架に向かわれました。神にのろわれた者として十字架で捨てられた後、主はよみがえられ、そして栄光の王として弟子たちの前に現れました。シモン・ペテロもまた、この試練を通して、自分の弱さを知り、涙と悔い改めの中で砕かれて、そしてもう一度キリストの弟子として従っていきます。私たちもまた、試練を通して神が信仰の高みへと引き上げてくださいます。しかしお互いに励まし合い、祈り合うことを忘れてはなりません。祈りましょう。十字架の意味がわからない人々のために。祈りましょう。救いを味わっていながら、試練の大きさのゆえに神から離れてしまった人々のために。祈りましょう。私たちが十字架の裏側を見つめ、私の罪のためにイエスが死なれたのだという事実を忘れることがないように。
posted by 近 at 20:55 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
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