聖書箇所 マタイの福音書27章27-31節
27 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。28 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。29 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」30 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。31 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。
序.
先週の火曜日から木曜日まで、この教会が所属する日本同盟基督教団の第64回教団総会が静岡の掛川で行われました。この第64回は教団の歴史を語る上で極めて重要な会議として記録されることになるでしょう。この10年以上、同盟教団は機構改革を進めてきましたが、今回の総会でそれが実現しました。来年度からは、今までのように牧師や信徒が300人以上集まる総会はなくなります。それぞれの宣教区からその都度選ばれる、100人くらいの代表者による総会となります。
お祈りいただいておりましたが、私は今回、財務審査委員会の委員長を務めました。名前は立派ですが、誰もやりたがらない奉仕です。今までの総会では、ひとつ一つの議題を扱っていては時間が足りません。そこでいくつかの委員会に議題を小分けしています。委員長は委員会の議長を務め、その内容を本会議で報告します。委員長についての奉仕依頼が来たとき、頭に思い浮かべたのは「やりたくない」という6文字でした。委員会では細かすぎる質問にきりきり舞いされ、本会議ではもっと細かい質問に吊し上げられ・・・しかし依頼を断れるほどえらくありません。腹を決めて、何週間も前から祈祷会で祈っていただきました。私自身も前日には会場入りし、用意した原稿を何度も復唱し・・・なのに、緊張して議事のひとつを飛ばしてしまいました。それを指摘されて頭が真っ白、議員が苦笑している姿が目に入ると顔は真っ赤。何とか総会は終了しましたが、身も心も疲れ切って帰りの道に着きました。
1.人に笑われて気づくもの
帰りの新幹線の中で、委員会や本会議で苦笑されたことを思い出し、こんなことを考えました。自分の分の人生の中で、とくに牧師となってから、人に笑われるということがどれだけあっただろうか、と。人を笑わせることと人に笑われることの意味はまったく異なります。人を笑わせることはしばしば成功体験として記憶されますが、人に笑われることはいつでも失敗体験として残ります。そして私たちは、だれもが失敗をいやがります。恐れます。人に笑われたくない。だから権威で自分を飾る。さらにその権威を力によってさらに固める。以前問題となった体罰指導も、そこに一つの原因があるのでしょう。人に笑われるということは自分の権威がはぎとられることです。だからこそ人に笑われることを恐れる。プライドが傷つくことを恐れる。
もちろん教団総会に集まってくる人々は、みんなクリスチャンです。だから悪意で人をあざ笑ったりすることはない。しかしそうとわかっていても、それが嘲笑ではなく、苦笑、失笑ということであるとしても、笑われたときに私の頭の中は真っ白になりました。その白い闇の中で見えたものがあります。それは私自身がいつのまにか権威を心にまとっていて、その権威の衣をはぎ取られることを恐れているという姿でした。事実、本会議の時に壇上に立ち、質問に窮してしまったときに思い浮かべたのは、来たる日曜日の礼拝風景でした。その時、こう思ったのです。今は権威もくそもない姿で壇上に立っていても、日曜日には説教者としての権威をもって講壇に立つことができる、と。そういう思いを一瞬でも持ってしまったことに悲しくなりました。私が牧師として歩み続ける中で一番気をつけていたことは権威に凝り固まってはならないということでした。権威を守るためにみことばを曲げて、教会が道を誤ってしまった例をいくつも見聞きしてきました。そしてそのような偽りの権威こそ、主が最も嫌われるものであると自らに語り続けてきました。でも自分がいつのまにかそのような偽りの権威で身を守るようになってしまった。しかし悲しみは希望へと向かいます。今、神は私が問題に気づくようにさせてくださった。それは私をおとしめるためではなく、立ち上がらせるためのものだ。そう考えると、奉仕を引き受けて良かったと思います。
2.先にキリストが笑われた
今、私は自分の経験をもって「人に笑われる」ことの意味を考えてみました。しかしこれは決して牧師だけではなく、私たち信者一人一人の問題でもある、いや、もっと言うならば信者、未信者関係なくすべての人間の前に示されている問いかけではないかと思います。あなたは人に笑われることを恐れてはいないだろうか。そして笑われないために、自分の周りに何重もの壁を張ってはいないだろうか、と。権威、プライドによって自分を守ろうとする人々がいます。しかし人に笑われないために、人と関わることそのものをやめてしまう人もいるのです。あるいは自分に好意的な人、自分にとって必要な人は受け入れるが、他の人々は自分とは無関係な存在として目も合わせない、という人々もいます。
しかしクリスチャンは、人に笑われることを恐れなくてもよいのです。なぜなら、イエス・キリストがすでに私たちの身代わりとして笑われてくださったからです。笑われてくださったとは、おかしな表現です。言葉を変えるならば、あらゆる嘲りの言葉を受けてくださいました。言葉だけではありません。つばを吐きかけられました。いばらの冠をかぶせられました。ユダヤ人の王さま、ばんざいとひざまずかれたと思えば、葦の棒でたたかれました。目隠しをされた上で殴りつけられ、当ててみろとも言われました。クリスチャンはこのような記事を読むとき、心が震えます。怒りで拳を握ります。しかし忘れてはならないのは、これが私たちの罪の姿なのだということです。今や怒りで拳を握りしめるどんなクリスチャンも、かつてはこの拳でキリストの頬を殴りつけていた張本人でした。神などいない。たとえいたとしても私には必要ない。それが私たちの姿でした。また神ではないものを神として崇め、栄光を汚していたこともありました。しかしキリストは、どのような辱めに対しても決して口を開きませんでした。ただそのはずかしめを無言で受けとめ、決してあらがうことをしませんでした。それがイエスが歩まれた十字架への道です。あなたの罪は私が背負う。ただその無言のメッセージを心に宿し、兵士たちの暴力、はずかしめを受けとめました。その兵士たちの姿の中に私たち自身もまた交じっています。
3.もっと笑われよ
キリストはいったい、どれだけの嘲りを引き受けてくださったのでしょうか。どれだけの暴力を受けとめてくださったのでしょうか。その辱めと苦しみに比べたら、私たちが、心の裸を隠すために幾重にも覆っている、ちっぽけなプライドやくだらない権威など、一体何だというのでしょうか。教団総会から帰ってきた翌日、私は敬和学園大学の卒業式に出席しました。これもやはりみんながやりたがらない同窓会長という肩書を背負って、壇上から新卒業生たちにこう語りました。「社会人生活20年の経験を通して知り得たことがある。人生にとって大事なことは、どれだけ人を笑わせたかではなくどれだけ人に笑われたかだ。みなさんがこれから出ていく社会は厳しい。自分のプライドを常にかきたてていかなければ崩れてしまいそうなこともあるだろう。だがどんどん人に笑われてほしい。失敗して人に笑われて、自分を守る鎧をはがされて、それでも絶対に剥ぎ落とせないものが最後に残る。それこそがみなさんがこの大学で得て、そして決して捨ててはならないものなのだ」。
社会人生活20年どころか、本当はその前の日に思いついたというのは秘密です。しかし2000年の間、聖書が語り続けている真理でもあります。キリストの嘲りと苦しみは、どんなはずかしめを受けても決して奪えないものがあることを教えているのです。イエスは緋色の上着を着せられ、茨の冠をかぶせられ、葦を杖として手に持たせられました。それはいわば王様ごっこ−−しかし子どものままごとのような穏やかなものではなく、悪意に満ちていました。それでもイエスはただ黙し、一切の反抗を示されませんでした。手にもった葦を取り上げられて頭を叩かれても声を挙げず、着せられた上着を脱がせられるときにも抗うことをせず・・・なぜならそのような侮辱行為の中でもイエス様の中で燃え続けていたものがあったからです。ヘブル人への手紙12章には、このように書かれています。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。どのような辱めの中でも決して奪えないもの。どのような嘲りによっても取り去ることのできないもの。それは「今、目の前にある喜び」です。どんな権威よりも、どんなプライドよりも、心を覆っているどんな鎧よりも強い力、それこそが「今、目の前にある喜び」です。イエス様にとっては、この十字架を通して全人類を救おうとする神の喜びであり、私たちにとっては、この十字架によって私たちの罪がすべて帳消しにされた喜びです。神様を喜ばせることなど何もできない私が、キリストの十字架のゆえに神の宝とされたこと。永遠のいのちを受け取る者となったこと。今、目の前にあるその喜びが心の中に生まれるとき、私たちは自分の心を恥やプライドで覆う必要がなくなるのです。もし再び覆ってしまったとしても、この十字架の前にいつでも私たちは戻ってくることができるのです。また裸からやり直すことができるのです。