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2013.4.7「あなたのために」

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聖書箇所 ルカの福音書24章13-32節
 13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから11キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

1.どんな弟子であろうとも
 13節、「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから11キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった」。夕暮れが追い迫る中、復活を信じられないまま、お互いに議論しながらエマオへと急ぐふたりの姿が目に浮かびます。まわりの薄暗さは、まるでこのふたりの心を象徴しているようです。イエス様がよみがえられた、と彼らは聞きました。しかしそこに喜びが生まれない。むしろ不安、失望がある。信じたくても信じられない。自分自身に対するいらだちを、お互いに議論し合うことで紛らわせている。彼らは紛れもなくキリストの弟子でした。しかし彼らはキリストが何度にわたり、わたしはよみがえると約束していたみことばをまったく忘れています。そしてそのことに目を向けることもないまま、夕闇へと向かっていました。
 しかし神に感謝すべきは、イエス・キリストはそのような弟子と一緒に歩んでくださる方です。「あしあと」という詩を聞いたことがあるでしょうか。あるクリスチャンが自分の足どりを振り返ってみたら一組の足跡しかなかった。神は私を見捨てていたのか。そこで神が答える。それはあなたの足跡ではなくわたしの足跡だ。わたしはあなたを見捨てたのではなく、あなたをおぶってきたのだ。
 キリストの弟子とは、キリストと共に歩む人のことです。しかし彼がキリストをそばに感じているか否かという自覚そのものは大切ではありません。大切なのは、私たちの自覚ではなく、神があなたと共に歩んでくださっているという事実です。ひとりぶんの足跡に動揺する弟子に神は共にいてくださいます。復活を信じることのできない弟子たちと共に歩んでくださいます。私たちがイエスとわからなくても、イエスは私たちを知っておられる。そして一緒に歩んでくださるのです。

2.あなたのために、私のために
 イエス、否、ひとりの旅人らしき人が彼らに尋ねました。「歩きながら二人で話し合っているその話は、何のことですか」。二人はあきれたように顔を見合わせます。そしてそのうちのひとり、クレオパがエルサレムの最新情報をこの田舎者に説明していきました。しかし彼の説明に根本的なものが欠けていることにお気づきでしょうか。それはこの十字架と復活の事実が「私にとって」どういう意味を持っているのか、ということです。彼のことばはイエスを愛する弟子というよりはアナウンサー、特派員です。公平ではありますが情熱が感じられません。冷静ではありますが感情が欠けています。この事実が「私にとって」どういう意味があるのか、ということがまるで見えてこない。キリストは十字架にかけられた。それは神の敗北だったのか、それとも勝利だったのか。墓が空っぽであったことに驚かされた。驚いた、で終わりなのか。頭は働いても心が働いていないさめた信仰の姿です。


 18世紀のイギリスにジョン・ウェスレーというクリスチャンがいました。彼がオックスフォードでつけられたあだ名は「聖書の虫」、大学生にして神学部の教授よりも遥かに上回る聖書知識を持っていました。卒業後、彼はアメリカインディアンへ宣教するために乗った船の中で、シュパンゲンベルクというクリスチャンに出会います。シュパンゲンベルクはウェスレーにこう聞きました。「あなたはイエス・キリストを知っていますか」。ウェスレーは憮然として、「私はキリストが世界の救い主であることを知っています」と答えました。するとシュパンゲンベルクはにこりともせずにこう言ったそうです。「私が聞いているのは、キリストがあなたを救ってくださったことを、あなたは知っていますか、ということです」。

 彼はウェスレーが聖書知識は豊富でもイエスとの個人的な交わりに欠けていたことを見抜いていました。みなさんはいかがでしょうか。キリストがあなたを救ってくださったことを、あなたは本当に知っていますか。本当に確信しているでしょうか。あなたは公の場でこう祈るかも知れません。キリストが「私たちのために」死んでくださった、キリストが「私たちの罪のために」身代わりになってくださった。しかし「私たち」ということばは気をつけないと、いつのまにか「私」という存在を覆い隠します。私の延長線上に私たちがあるのであり、決してその逆ではありません。教会で「私たち」として礼拝を守っていたとしても、家庭で「私」として聖書を開くこともないのであれば、「私」は「私たち」の中に埋没してしまっているのです。

 クレオパの説明に対し、旅人はこうつぶやきました。25節、「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」。彼らに足りないのは知識ではなく心でした。「私たち」や「人々」がイエスをどう評価するのかは優先規準ではありません。「私たち」の前にまず「私」はイエスを何と言うのか。クレオパたちに欠けていたのは「私」にとってイエスは誰なのかということでした。旅人はふたりの弟子にみことばを語りました。知識としての聖書ではなく、いのちを流し込む聖書を語りました。そのときに二人の心は燃えていったのです。もし私たちがみことばに冷めてしまっているならば、それを熱くするのもまたみことばでなければなりません。「私たち」という隠れ蓑の中でみことばを聞くのではなく、今この「私」に語られている招きとしてみことばを聞くのです。みことばを開くのです。みことばに答えていくのです。

 ウェスレーはインディアン宣教に挫折し、そこで初めてシュパンゲンベルクの質問を真剣に受けとめるようになりました。そしてこの経験が、その後のウェスレーの人生を決めたのです。今やジョン・ウェスレーの名は、イギリスばかりか全世界に宣教と信仰の革命をもたらした者として記録されています。みことばは、自分以外の誰かが必要としているものではありません。まず「私」が、みことばがなければ死んでしまう。それが宗教改革者ジョン・ウェスレーの出発点でした。

3.たとえ目に見えなくても
 ふたりの弟子は、この旅人の語るみことばによって変えられました。エマオに着いた彼らは、この旅人を無理にひきとめて、家へと招き入れます。そして不思議なことが起こりました。30、31節、「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった」。聖餐式をほうふつとさせるこの出来事の中で彼らが旅人をイエスだとわかったというのです!そしてイエスは彼らには見えなくなりました。いなくなったのではなく、見えなくなったのです。イエスだとわかったふたりには、もはや目に見える姿を取る必要はありません。目には見えなくても、確かにここにいる。ふたりはこう告白します。32節、「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」。

 みことばが私たちにいのちを与えます。それを体験する者は、目に見える足跡がひとり分だとしても、決してイエスがいなくなったとは考えません。目に見える結果がどうであろうと、神はみことばを通して私の心を燃やしてくださっているのだ。そう確信します。私たちに必要なのはその信仰です。今日の聖餐礼拝を通して、あなたに呼びかけられているのは、無理にでもイエスを引き留めて心の中に入っていただくように願いなさいということです。あなたの周りは夕暮れに包まれ、闇に向かっています。イエスが心にとどまってくださるように、みことばにしがみつきなさい。イエスはあなたのために死からよみがえってくださいました。「あなたのために」。その愛に答える者となりましょう。
posted by 近 at 13:21 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
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