聖書箇所 ルカの福音書24章33-43節
33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
こんな小咄を聞いたことがあります。ある地方で、いつになくひどい干ばつが起こりました。何ヶ月も雨が降りません。村人たちは困って、さる高名な祈祷師をよんで雨乞いをすることにしました。祈祷師がきました。村長以下、村人は総出で遠まわしに祈祷師を囲み、雨乞いの儀式が始まるのを待ちました。と、祈祷師が鋭い目線でしばし周りを見渡した後、村長を呼んで話を始めました。その内、次第に怒りだし、すごい剣幕でまくし立てるや道具をまとめてさっさと帰ってしまいました。何が起こったのか、村人達にはさっぱり分かりません。事の次第を訊ねると、村長はこう答えました。「祈祷師のプライドを傷つけられたんだと。おれ達のうち、だれも傘をもってきとらんちゅうてのう」
エルサレムに集まった弟子たちの姿は、この村人たちのようです。雨がふるふると言いながら傘を持ってこなかったように、よみがえりを口々に語り合いながら、そこにイエス様が現れると幽霊だとパニックに陥る。いったい、今の今まで喜んで語り合っていたのは何だったのか。しかし弟子たちは村人に似ていても、イエス様は祈祷師とはまったく似ておられません。怒り出して天に帰ることなく、弟子たちの不信仰に対しても寄り添ってくださいます。38節、「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか」。
今の今まで、私のことであなたがたは恵みを分かち合っていた。それなのに、どうして今このように動揺しているのか。それは彼らの中にみことばが根付いていないからでした。このルカ24章には、ひとつの共通したテーマがあります。よみがえられたキリストが、人々の心にみことばを呼び覚ましていくということです。空っぽの墓を見た女性たちは、イエスがよみがえるという聖書の約束を忘れてしまっていました。エマオの弟子たちは、イエスのよみがえりを自分自身と結びつけて考えることができなかった。そんな彼らにキリストはご自分を現してくださった。なのに、彼らは実際にキリストが現れると、恐れと驚きの中で動揺してしまう。よみがえりという神の勝利の証しが目の前に起こっても、みことばが根付いていなければこのとおりです。しかしイエス様は決して見捨てはしない。何度彼らがみことばを忘れてしまったとしても、忍耐強くみことばを呼び覚ましていくのです。
驚きと恐れの反対は、心の平安でしょう。そして平安とは、自分の周りの問題が落ち着いている状態のことだと考えるかもしれません。しかし神の与える平安は違います。問題があろうがなかろうが、そこにみことばが生きているとき、私たちは心に平安が生まれるのです。どんなに痛ましく、目を背けたくなる、一刻も早く忘れたい現実があったとしても、私たちがそれをみことばに照らして見つめ直すならば、そこから私たちは平安を受け取ることができます。神からの平安は、自分に起きていることがプラスかマイナスかという評価と関係ありません。喜ばしい現実の中に、神からの警告を受け取ることもあれば、悲しみの現実の中に神からの慰めを見いだすこともあります。みことばがなければ地上の現実に一喜一憂するだけの私たちです。しかしみことばが私たちの中に息づいているとき、すべては益となるのです。
39節、「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい」。いったいそれはどのようなからだでしょうか。釘と槍の跡もすっかり消えてしまった、栄光のからだでしょうか。そうではありません。確かにイエスは栄光のからだをもってよみがえられました。しかしその手足には傷跡も生々しい、釘にえぐられた穴が残っていたはずです。キリストは何の傷跡も残っていない美しいからだでよみがえることを選びませんでした。あえて傷跡を残した身体をもって弟子たちの前に現れました。
傷跡の残るからだを見てもまだ信じることのできないほどの弟子たちです。魚を召し上がるというようなことも加えなければならないほどのかたくなな心です。この心のかたくなさが、キリストの栄光のからだの中にも、痛ましい傷をなくさせることができない。この意味がわかるでしょうか。私たちの罪がキリストに与えたのは、決して十字架のときに与えた傷だけではない。キリストが復活したその栄光の身体、そこにもみにくい傷跡が刻みつけられていたのです。この事実を見落とすならば、私たちがキリストに与えた打ち傷の大きさも見落としてしまいます。自分の罪がわかりません。罪がわからないなら恵みもわかりません。
私たちクリスチャンの地上の人生、それは少しずつイエス・キリストに似たものとなり、きよくされていくことだと言われます。ではきよいとはどういうことでしょうか。救われた生活の中で、少しずつ罪を犯さなくなり、正しい人間になっていくことでしょうか。確かにそう考えているクリスチャンも多いのです。そして信仰歴を重ねているにも関わらず全然きよくなっていない自分の姿に失望し、あまつさえ自分は救われていないんじゃないかと疑いさえします。しかしキリストが栄光のからだの中に十字架の傷跡をあえて残されたという、この事実が私たちにきよいという言葉の意味を教えてくれます。きよさとは罪を犯さなくなっていくことではありません。常に自分の中にある罪、己の醜さ、この罪がキリストの栄光のからだにさえいまだに傷跡を残し続けているという自覚、それこそがきよさです。
罪という傷を忘れ、見なくなっていくことがきよさに辿り着く道ではありません。常にこの傷と向き合っていくときに、私たちはきよさということを理解するのです。信仰歴を経て罪を犯さなくなった、という信仰者がいるならば、それは罪を犯さなくなったのではなく、罪に対して鈍感になったというだけです。人は罪を犯さないで生きていくことなどできないのですから。信仰が深まれば深まるほど、私たちは罪に対して敏感になります。それまで罪とは思わなかったものさえ、罪として自覚するようになります。しかし私たちの心はそこで沈むことはありません。罪を自覚し、悔い改めずにはいられないからこそ、すべての罪のさばきを引き受けてくださったキリストを仰ぐことができます。自分の力で罪と戦おうとするのではなく、この十字架にすべてをゆだねようとするのです。
神学生のときに、ある大先輩のH牧師がこんな証しをしてくださいました。H先生は神学校を卒業した後、宣教師が開拓したばかりの教会に、伝道師として赴任しました。開拓直後でしたので、信徒もまだ成長途上の人ばかりだったと言います。何とか彼らをキリストの弟子に育てたい、そのために大切なのはみことばであると考え、毎週、情熱をもって説教を語り続けました。しかしある日のミーティングで、宣教師からこう言われました。「H先生の説教には、○○しなければならないということばが目立ちます。でも福音はそう語っているでしょうか」。まだ若く、説教にも自信を持っていたH先生はムッとしてこう答えました。「では先生のいう福音とは何ですか」。宣教師はH先生を講壇へ連れていきました。そして大きなからだを背後の十字架によりかからせて、こう言いました。「これが福音です。○○しなければならないより先に、それを成し遂げてくださる十字架のイエスに自分をお任せすることです」。
イエス様はあなたにみ手を広げて、この傷を見なさいと言っておられます。その傷はだれがつけたものでしょうか。私がつけたものです。そしてあなたがつけたものです。でもその傷を見つめるとき、罪の悔い改めと同時に、イエス様が確かによみがえられたのだという確信がわいてくるのです。聖書は言います。41節、「それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっていた」。
うれしさで信じられないという経験があるからこそ、弟子たちは信じてからもそのうれしさが消えることはありませんでした。己の信仰歴を振り返ってみると、信じているけれどもうれしくないという時期がありました。それはイエスのみからだにある傷跡を見ずに、自分の罪ばかりを見ていたからです。自分の罪が清算された確信のないままに「○○しなければならない」という使命感ばかりが先行するならば、やがては疲れ果てます。しかし自分の罪をイエスが完全に清算してくださったと、十字架に身をゆだねることのできる者は、「もし主のみこころであれば、○○をさせていただこう」という正しい使命感へと向かうことができます。そしてそれは決して重荷とはなりません。ひとり一人が、十字架の傷跡を見つめながら、イエス様に自らの歩みをお任せしていきたいと願います。