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2013.4.21「ふさわしき場所は天にある」

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聖書箇所 ヘブル人への手紙11章35-12章2節
 11:35 女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。36 また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、37 また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、38 ──この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした──荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。39 この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。40 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。
 12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

 
 中村伸子姉がお元気だった頃、ときどき家を訪問させていただきました。話し好きな人だったので、ついこちらも引き込まれてしまいます。いつのまにか笑い声が大きくなったりすると、こちらもはっとして、「お兄さん、向こうにおられるんですよねえ」と、「ああ、いいですわ。兄、耳が遠くて聞こえねすけ」とあっさりと答えておられました。でもじつは伸子さんの話題の半分はお兄さんのことで、本当に仲がよい兄弟だなとうらやましくなりました。伸子さんがよくされる話題で、毎年、お兄さんと電車に乗って山形まで遊びに行くというのがありました。聞き間違いでなければ、駅の中に足湯があって、ホテルも駅に直結していて、私が「ばかいい所ですねー」と相づちを打つと、「そうそう、ばかいいとこなんですわ」と受け返してくれる。そんな楽しかった一時を、ときどき思い返すことがあります。
 数年前に一度、米沢に行ったことがあります。地元の牧師にこの話をして、「こういういい所があると聞いたんだけど、米沢にありますかね」と聞いたら、知らないと言う。その代わり、米沢にもっといい場所がありますよと言われました。どこですか?北山原だよ。ホクサンバラ?温泉施設ですか?ちがうよ、江戸時代のキリシタン処刑場跡だよ。せっかく米沢に来たんだから、時間を作って見ていったほうがいいよ。あいにく行くことはできませんでしたが、新潟に帰ってきてから北山原殉教遺跡についてインターネットで調べてみました。驚きました。
 私はそれまで、キリシタンの殉教は江戸や京都といった大都市か、長崎や島原のような九州のほうだと思っていました。しかしじつは米沢は、日本で一日のうちにもっとも多い殉教者を出した地域であったのです。正確には1629年1月12日、米沢の信徒総代、ルイス甘粕右衛門ほか総勢53名が処刑場の露と消えました。じつはこの甘粕右衛門は、今日の言葉で言えば新潟出身です。彼だけでなく、殉教者の多くは新潟から米沢へと移っていった上杉家の武士とその家族たちでした。
 北山原の殉教に詳しい歴史家は、このように言います。「北山原のキリシタンたちは、みなに慕われ、みなに敬われながら、死んでいった」と。徳川幕府は、キリシタンを邪宗門と呼び、見つけ次第、捕らえるべし。拷問のうえ棄教しなければ、いかなる身分であっても処刑すべしと、全国の諸藩に命令を下していました。しかし当時、米沢には1万人以上のキリシタンがいたと言われています。そして米沢では、キリシタンがだれにも尊敬されており、そしてキリシタンはあらゆる人々に影響を与えていました。こんな逸話があります。当時の米沢藩主が、幕府に逆らいきれないとキリシタン処刑を決めた際、キリシタンではない筆頭家老のひとりが、それをとどめるように直訴しました。そのときに、この家老が口にしたのが、なんと「十戒」でありました。「あなたの父と母を敬え。殺してはならない。盗んではならない」。このような正しい教えを伝えているキリシタンたちが殺されてよいはずがない、といわゆる未信者であるこの家老は訴えたというのです。結局、その願いはかなわなかったのですが、しかし米沢のキリシタンたちがどれほどの社会的影響力を持っていたかを教えてくれる証しです。
 筆頭家老だけではなく、キリシタンに対する尊敬と好意は、処刑役の下級役人にまで徹底していました。米沢の殉教者たちは、捕らえられた後、決して牢屋に投げ込まれることがなかったと言います。彼らを捕らえた役人たちは、このように信仰を貫いていのちを捨てる者たちを、断じて罪人として牢屋に投げ入れることはできない、と考えたのです。代わりに彼らは処刑の日まで自宅に待機するように命じられました。しかし誰ひとりとして逃げ出す者はいませんでした。そして処刑当日、役人たちは殉教者53人、それぞれの家に迎えに行くという、前代未聞の待遇で処刑の日を迎えました。ルイス甘粕以下、殉教するキリシタンたちは質素な裃(かみしも)ではなく、持っている一番華やかな衣装で身を包み、家から出て来ました。今日、天国でイエス様とお会いすることができる。そう信じて喜びながら北山原の処刑場へと歩んでいくその行列は、あたかも勝ち戦の凱旋行列のようであったと言います。そして到着後、処刑場の垣根を取り囲む見物人たちに、執行役人はこう叫びました。「みなの者、ここで死ぬこの者たちは、信心のためだけで殺される身分の高い者である。よって皆これより平伏せよ」。その言葉通り見物人がひれ伏したかどうかは記録にありませんが、まさに常識ではあり得ないことが起きたのが、北山原での殉教でした。

 私たちはため息をつくかもしれません。彼らの信仰と、私たちの信仰の、あまりにも大きな違いに。彼らは満足に聖書さえ持っていない人々でした。このように日曜日に集まることもできず、常に死と隣り合わせの人々でした。拷問を受けて、それでもイエスを捨てなかったという話はよく聞きます。しかし彼らは拷問を受けなくても、イエスのために死ぬことを選んだのです。いや、イエスのためだけに生きることを選んだのです。その鍵はどこにあるのでしょうか。それは今日の聖書箇所の38節に書かれています。「この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした」。何気ないこの一文が、私たちの信仰の本質を表しています。「この世は私たちにふさわしい所ではない」。言うまでもなく、これは世捨て人になることを命じているのでも、革命でこの世界を変えていくという意味でもありません。世を捨てるのでもなく、世から逃げるのでもない。しかし私たちが本当の平安を置く場所は、この世界にはない。それはただ、天にある。天国にある。

 この教会の牧師として赴任し、数名の信徒を天に送り出してきました。今日はそのことをおぼえながら、ここに立っています。彼ら召天者の顔を思い出しながら、心に思うのはやはりこの世は私たちにふさわしい場所ではないということです。確かに楽しい、美しいこと、喜ばしいことも数えきれません。しかしもしキリストが天に待っていてくださらなければ、それらは手ですくった水のようです。指の間からこぼれていき、何も残りません。何度も何度も水をすくい、口元に運んでも、半分以上はこぼれて地面に流れます。
 イエス様が天国で私たちを待っていてくださるからこそ、私たちはこの世に感謝することができます。もし今日、この世で命が与えられるなら、それはキリストのため。もし今日、この命が世から取り去られるなら、それもキリストのため。最初に天に送り出した山ア為治兄をはじめとして、一昨年の秋に召された佐藤敬子姉に至るまで、彼らは本当の安らぎの場所はこの地上にではなく、天にあるということを教えてくれました。私たちも天に向かって歩んでいきたいと願うのです。イエス・キリストが私の罪のさばきを代わりに十字架で引き受けてくださり、そしてよみがえってくださった。400年前の米沢でも、二千年前のローマでも、聖書は印刷されたものとして信者ひとり一人の手にはありませんでした。でもイエス様の十字架とよみがえりのすばらしさは、確かにひとり一人の信者の心の中にはっきりと語られていたのです。

 イエス様は、十字架にかけられる前、弟子たちに言われました。「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしない。あなたがたのために天に場所を備え、そしてまた戻ってくる」と。このイエス・キリストを救い主として信じましょう。この世は移り変わる世界です。10年前には美徳だったことが非常識と言われ、非常識だったことが美徳とされるようなことも起こりうる、不安定な世界です。しかし決して変わらないもの、それはイエス・キリストです。イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じです。どうか、この方を心に受け入れて、決して変わらない、そして私たちをイエス様が待っておられる、イエス様だけでなくすべての召された聖徒たちにお会いすることができる、天国に向かって希望を置きましょう。
posted by 近 at 22:01 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
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