聖書箇所 ルカの福音書24章44-49節
44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。48 あなたがたは、これらのことの証人です。49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
先日、ある方と話していたときに、「私たちには祈ることしかできませんね」という言葉が出て来ました。おそらく後世の歴史家が日本の歴史を綴るとき、この2013年に国民は何をしたか、あるいは何をしなかったかという書き方をするでしょう。そしてその歴史家がそれを書いているそのとき、もしかしたら日本という国はなくなっているかもしれません。私たちが今過ごしているこの年は、そのような瀬戸際であるということを無視することができません。憲法96条の改正が今、さかんに叫ばれていますが、政府からすればそれは外堀にすぎません。内堀は憲法第9条にある「戦争放棄」であり、それを埋めてしまうこと。さらにその先にある本丸は、個人よりも国家が優先される世界です。
ひたひたと近づいてくる言いしれぬ未来への不安、その中で私たちは、いや、「私」は何をすればよいのか。反戦集会に参加し、署名を集め、プラカードをもって行進すべきだろうか。それも大事でしょう。しかし私は、私にできることではなく、私にしかできないことを用いて、この2013年という、日本にとって間違いなく分水嶺となるであろう日々を戦っていきたい。その中である方の口から出て来た言葉が「私たちには祈ることしかできない」ということでした。しかしそこにあるのは決して無力感ではありません。祈ることは私にしかできない、という確信です。
祈りはだれにでもできることではありません。事実、信仰のない人も祈りますが、自分が今祈っている、その無力感に耐えきれずに立ち上がってしまいます。しかし私たちは祈ります。その祈りはひとり一人が神からゆだねられた、その人だけのうめきです。聖書にはこういう言葉もあります。「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊なる神ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」。私たちは、自分にしかできないこととして、神様から祈りを与えられています。その祈りを自分だけのやり方でけんめいに働かせていくことが大事なのです。
子供のころ読んだ童話「くまの子ウーフ」が、最近新聞のコラムで取り上げられていました。動物たちの村にため池を作ることになったとき、ウーフはお父さんに「くまはねずみ100匹分働けばいいんだね」と言いますが、お父さんはこう答えます。「ねずみはねずみ1匹分、きつねはきつね1匹分、はたらくのさ。だれの何匹分なんかじゃないんだよ。おとうさんはくまだから、くまの1匹分。ウーフなら、くまの子1匹分さ。みんなが1匹分、しっかり働けばいいんだ」。
クリスチャンは、クリスチャン1匹分。失礼、1人分、しっかり働けばよい。ねずみにはねずみしかできないこと、くまにはくましかできないことがあり、クリスチャンにはクリスチャンにしかできないことがあります。それが祈りであり、みことばであり、イエス様の証人になることだと思うのです。
私は毎週日曜日、この講壇に立ち続けています。10年として単純計算すれば、ここで説教も500回は語ってきたということになります。まあ、同じ聖書箇所から、同じような話をしていることも多々ありますので、実際はもっと少ないかもしれませんが。その語ってきた説教は、みなさんの10年間を生かしてきたでしょうか。先週の日曜日に語った説教は、先週のみなさんを生かすことができたでしょうか。今日語る説教は、今週のみなさんを生かすことができるのでしょうか。そのことを考えるときに、私さえもみことばに無力感を感じてしまうことがあります。たとえ教会員は生かすことができたとしても、とても世を変える力にはなり得ない。しょせんは、教会という井戸の中でこだまするだけの言葉にすぎないのではないか、と。
しかしその時折感じる無力感を打ち消すのもまたみことばです。みことばは現実から離れた絵空事ではありません。むしろみことばだけが、偶然の積み重ねのように見える現実に対して、神が私たちに用意されている計画という視点を与え、希望と確信へと導くことができるものです。イエス様が弟子たちとともにおられた三年半は、ただ奇跡に明け暮れた生活ではありませんでした。旧約聖書がご自分について語られていることを弟子たちに何とかして知ってもらいたいと願いながらみことばを教え続けた三年半でした。44節でこう言われているとおりです。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした」。そしてイエス様はさらに弟子たちの心を開いて、こうも語られました。46節、「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。
キリストが弟子たちの心を開いてくださったとき、弟子たちはこの三日間の出来事が、すべて歯車がかみ合ったように動いていたことを知ったのです。なぜイエス・キリストがエルサレムで死ななければならなかったのか。なぜ十字架の周りで、あれほどまでに人々が醜い罪の姿を露わにしたのか。なぜそこにローマ兵といった外国の者たちも加わっていたのか。それは人々の罪の悔い改めがこのエルサレムから全世界に広がっていくための神の計画の一部でありました。バプテスマのヨハネが始めた罪の赦しのバプテスマを遙かに超える悔い改めが起こっていくということ、天の御国が近づいた、ではなく今まさにその国が来た、という神の計画が実現したことを彼らは理解しました。「みことばがわかる」ということは、あなたを取り巻いている現実の意味がわかるということです。「みことばが生きる」ということは、あなたが今生きている現実が偶然ではなく、神がそこに私たちを遣わしておられるのだと確信して生きていけるということです。そしてイエス様は言われます。48節、「あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」。
今日、あなたはみことばを聞きました。それがもしあなたの心の中だけでとどめられてしまうならば、まさに聖書も説教も古井戸にこだまする響きでしかありません。井戸から飛び出して、この世に伝えていく働きが、イエス様の命じられた「証人」ということです。あなたの祈り、あなたのことば、あなたにしかできない、あなたにしか持っていない神様からの宝物。それをどのように用いていくかはあなたにゆだねられています。実際に人々にみことばを伝えていくことだけが証人の働きではありません。家庭でとりなしの祈りをささげることも証人の働きとなり得ます。「何もしない」という選択肢以外のすべてのことが、あなたが証人として神と共に歩む一本の道へと繋がっています。私も勇気をもってこれからも、ここから語り続けます。あなたも、あなたにしかできないことを用いて、この闇の世にあって光の証人として歩んでください。それが、私たちのために十字架でいのちの道を開いてくださったイエス様が願っていることなのですから。