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2013.5.12「待つことは備えること」

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聖書箇所 ルカの福音書24章46b-53節
 46b 「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。48 あなたがたは、これらのことの証人です。49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
 50 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。51 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。52 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。



 神学生の頃、ある講師のメッセージに違和感を感じたことがあります。それはこんな言葉でした。「エホバの証人のような異端が信じていることは間違いだが、彼らの熱心な伝道姿勢は見倣わなければならない」。この言葉のどこがおかしいのでしょうか。信じていることが明らかに間違っているのに、方法は正しいなどということはあり得ないのです。かつてイエス様はこう言われました。「良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません」(マタ7:18)。たとえ彼らがどんなに熱心に訪問活動をしているとしても、その熱心さは神の喜ぶ熱心さとは遠くかけ離れています。イエス様のみことばをもうひとつ引用します。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです」(マタ23:15)。熱心さは、正しい信仰のバロメータにはなり得ません。海と空を飛び回って自分たちの仲間を作ろうとする熱心さがあったとしても、信じていることが偽りであれば、忌まわしきかなと、主は拳を握られるのです。
 しかし先ほどのような発言が牧師の口からさえ飛び出してくるのは、伝道をしていないというひけめをクリスチャンにあるからでしょう。教会に閉じこもっていないで外へ出てもっと伝道しなければ、リバイバルは起きないのだと。しかし私は警告します。そのような、伝道の意味を知らない人々は決して伝道してはなりません。じつは弟子たちもとどめられたのです。イエス・キリストは確かに世界宣教への命令を彼らに与えられました。しかし彼らはその前にやるべきことがあった。それがじつに「待つ」ということであったのです。48節で、イエス様は弟子たちを証人と呼ばれました。しかしそこで「さっそくあなたがたはこれから世界中に向かって伝道しなさい」と主は言われないのです。むしろ「とどまれ」と。それははやる気持ちを抑えて「待て」ということです。何を待つのか。その答えが次の節にあります。49節後半、「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」。エルサレムにて天からの力、すなわち約束の聖霊が与えられるのを待ちなさい、というのです。
 なぜ待たなければならなかったのでしょうか。それは待つことは備えることだからです。弟子たちは伝道について備える必要がありました。使徒の働きの並行箇所を見ると、彼らはまだこの時に至っても、キリストがローマ帝国を打ち倒して神の国を建てるという地上的、政治的な目標にとらわれていたことがわかります。そのような彼らがいきなり世界に飛び出して、何を伝えることができるのでしょうか。

 だから彼らはエルサレムで備える必要がありました。なぜ伝えるのか。何を伝えるのか。祈りつつ備えていく中で彼らは気づくのです。自分たちの中に「なぜ」とか「何」を越える思い、義務感や使命感ではなく、もっと本質的なもの、つまりイエスの祝福から生み出され、自分たちのなかにいよいよ燃えさかる「喜び」が生まれていることを。その喜びを人々に伝えずにはいられない。最初彼らは家に集まって備えていたことでしょう。しかし53節にはこうあります。「いつも宮にいて神をほめたたえていた」と。喜びは人々への恐れを吹き飛ばします。宮には祭司長、律法学者、パリサイ人、彼ら弟子たちが恐れていた人々がひしめいていました。しかしもはや恐れはない。キリストの死は復活の勝利に飲まれたように、弟子たちの恐れは証人とされた喜びに飲まれたのです。
 エホバの証人のような異端が一生懸命に伝道するのは自分のためです。彼らは救われたと言いながら心の中では救われたと思っていません。笑顔で訪問しますが、目は笑っていません。むしろおびえと緊張の中にいます。町中、国中を飛び回り、改宗者を獲得して彼らを自分以上のエホバの証人にすることでしか、自分の意味を見つけられない。しかし私たちはイエス・キリストによってすでに救われています。伝道しようがしまいが、すでに救われています。でも救われたからこそ、この道を伝えずにはいられないのです。イエス・キリストが十字架で開いてくれた、恵みの道を。
 もしクリスチャンであるあなたが福音を伝えないとしても、決してさばかれることはありません。あなたが福音を伝えなくても、あなたは救われています。あなたは自分の存在意義を確認するために伝道をする必要もありません。しかしあなたはすでに知ってしまいました。地上では救いを知らなくても平気で生きていけたとしても、その終わりはだれもが滅びであるということを。もしあなたが福音を伝えなければ、あなたの愛する人々に待ち受けるのは永遠の滅びです。そこから救い出されるためにはイエス・キリストを救い主と告白し、その御名を叫び求めるしかありません。だからこそ伝えずにはいられない、それが伝道です。信じるどころか、聞いてさえもらえないこともある。99%の場合がそうかもしれません。しかしそれでも伝えずにはいられない。それが伝道です。

 弟子たちがエルサレムに戻り、聖霊が下るのを待ち続けた、この「待つ」という行為を通して、彼らは聖霊にふさわしい者として整えられていったのです。福音は力です。力はギリシャ語ではデュナミスと言いますが、ここからダイナマイトという言葉が生まれました。私たちは目に見えないダイナマイトを世に運ぶ者として召されました。だとしたら準備不足の者にはとうてい預けられる代物ではありません。キリストの証人となるために、自らの霊的状態を整えておく。そこでみなさんに知っていただきたいみことばが二つあります。まずイエス様がルカの福音書12章11節で言われたことばです。
「また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」
 一方ペテロの第一の手紙3章14節にはこうあります。
「たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」
 イエス様は、人々の前で何を言うか心配しなくてもよいと言い、ペテロは誰にでもいつでも弁明できる用意をしていなさいと言います。一見矛盾しているように思えます。しかし矛盾ではありません。ペテロが言う「弁明できる用意」とはことばのことを言っているのではないのです。むしろ、いつでも聖霊が自由に働くことができるように、心の中を整えてイエス様をその中心におきなさいということです。それが証し人には絶対必要なのです。待ち続けるのです。備えておくのです。

 「待つ」ということは決して後ろ向きの行為、あるいは現状維持の行為ではありません。エルサレムの神殿で、人々の目を恐れることなくペンテコステを待ち続ける弟子たちは、明らかに前へ向かって歩み出していました。この私たちの礼拝もまたそうです。決して教会の中に閉じこもっているのではありません。ひとり一人がみことばを待ち望みながら礼拝に臨みます。賛美をささげ、とりなしの祈りをささげ、私たち自身をささげます。主よ、お語りください、しもべは聞いておりますと備えながら、祝福の祈りに押し出されて、私たちはこの世の失われたたましいのもとへとはせ参じていきます。来週は、二千年前、弟子たちに聖霊が臨んだペンテコステを記念する礼拝です。一週間、私たちは祈り備えながら、またこの礼拝に集まってこようではありませんか。私たちも同じ聖霊を受けて証人とされた者たちなのですから。
posted by 近 at 15:17 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
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