最近の記事

2013.5.19「自分探しは自分壊し」

<当日の週報はこちら

※礼拝の中で、信仰生活50年表彰を迎えた森田澄子姉の証しがありました。




聖書箇所 使徒の働き2章1-21節
 1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
 5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。
 14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
  すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。
それは、血と火と立ち上る煙である。
20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』

 みなさんの足もとをご覧ください。いつもの床とは輝きが違うと思いませんか。おととい、敬和学園のみなさんがワックス掛けをしてくださいました。ワックスだけでなく、不用品の搬出作業や庭の草むしりなど、若い力をフル稼働して働いてくださいました。当日は、何人かの信徒の方々も駆けつけてくださって、そのひとり渡辺アロマさんがお昼休みにギター賛美を披露してくださいました。そうしたら生徒さんがお返しということで、なんと楽譜なしでハレルヤコーラスを歌ってくださいました。じつは敬和では毎年卒業式には全校生徒がハレルヤコーラスを歌うので、私のほうから半ば冗談でリクエストしたのですが、楽譜がないのに、そのみごとな歌いっぷり。敬和学園の底力を改めて見させていただいた一日でした。
 敬和学園高校では、教育テーマに「自分探し」というフレーズを掲げています。そして敬和には、自分を見失っている子供たちが全国からやってきます。「自分を見失っている」という今の言葉は決して悪口ではありません。いったい自分は何者なのか。何のために生まれてきたのか。何のために生きているのか。親、学校、社会は外側から「自分」を押しつけてきます。あなたはこういう人間になるべきだ、と求めてきます。そしてそういう育て方をされる中で、子供たちは自分で自分のことを私はこういう人間なんだと決めつけていく。外からの理想像と、内側の自画像。そのギャップの中で自分の姿を見失っている。しかし繰り返しますが、見失うということは悪口ではない。むしろ15歳そこらの年で、自分はこういう人間なんだと揺るがない自信を持っている方が異様であり、異常です。

 少し余談になりますが、よくクリスチャンホームの子供たちが思春期に部活や人間関係で揺れ動き、教会から離れがちになってしまうという話を聞きますが、私はそれは極めて自然なことではないかと思うのです。それを親の育て方が悪かったとか信仰が足りなかったとか言うのはまったく的外れであって、「自分を見失う」ということが人間としても、信仰者としても成長するには不可欠なのです。いわゆる思春期と呼ばれるころ、あらゆるものを繊細な心で受けとめ、将来の自分の糧としていくその時代、子供たちは、いや人は揺れ動き、見失うことで自分の姿を見いだしていきます。そのときに心の深みに神のみことばがあるならば、彼らはそれを支えとして、本当の自分を探し出していくことができる。だから教会は、子供たちを教えているのです。何があっても揺れ動かない人生ではなく、たとえ揺れ動いたとしても根っこの部分には逃げ込むところがある。それが教会教育です。以前、白鳥の国という寓話を語ったことがあります。繰り返しは避けますが、この世界は罪にあふれているからといって子供たちの目をつぶしてしまうのではなく、その罪の世界の中でどんなにもがきあえぐとしても、子供たちが心の深みに神のことばをたくわえていると信じて、湖から旅立たせることが信仰者の親に必要なことでしょう。子供たちの心は柔らかい。柔らかいゆえに揺れ動く。しかしその柔らかさゆえに、彼らはあらゆる良きものを心に受け入れることができる。

 だからこそ、私はおととい敬和の学生たちにこう語りました。「自分探し、それはじつのところ、自分壊しに他ならない」と。たかだか15年から18年の人生で、自分はこういう人間なんだと決めつけることはやめよ。たとえ敬和の三年間がどれだけ充実した日々であったとしても、それまでの自分に満足し、そこから一歩も動こうとしない、そんな心でいてほしくない、と。それまでの自分を壊すことのできる勇気。それまでの自分を否定することのできる潔さ。古い自分の澱(よどみ、かす)を捨てて、新しい自分を見つけ出し、作り出していく「自分壊し」、それこそが自分探しなのだと。
 でも本当は彼らに語りたくなかったのです。彼らはまだ18歳、あえて壊さなければならないほどの人生経験はまだ積んではいません。過去に逃げ込むような年齢ではありません。過去を捨てることの難しさも知りません。私がこの「自分壊し」という言葉を語りたかったのは、もっと大人に対してです。家族を守るためにひた走る30代、40代。子どもが独立し、夫婦だけで過ごす時間が増えてきた50代、60代。自分の人生の終わりを見つめていく70代、80代。「自分探し」や「自分壊し」という言葉を本当に必要としているのは、じつは私たち大人です。大人にとって、過去を捨てるにはあまりにもたくさんのものをため込みすぎています。過去を否定するには、あまりにも長く生きています。過去の苦い思い出ならば捨てることもできましょう。しかし成功した経験は捨てることが困難です。そしてその成功体験は、私たちが自分を変えていこうとするとき、足をひっぱります。そんな難儀なことをしなくても、今まで普通に生きてこられたじゃないか。なぜあえて新しい道を歩もうとするのか。そのようにささやくのです。

 2000年前のペンテコステの日。その日は教会が生まれた日です。すでに弟子たちのグループは120人以上にまでなっていましたが、この日弟子たちの上に聖霊が下りました。そして様々な国から来ていた巡礼のユダヤ人たちに、聖霊の力によってそれぞれの国のことばでみことばを語りました。そして3000人以上の人々がその日のうちに信じ、そして彼らがそれぞれの国に戻っていくことで、教会は爆発的に世界へと広がっていきました。ある人は、聖霊が下ったときに彼らは変えられたのだと言います。確かに外国の言葉を話すという奇跡の力は、聖霊なしにはなし得なかったでしょう。しかし『ルカの福音書』と『使徒の働き』という、同じルカが連続して書いていったこの二つの記録を通して読んでいくとあることに気づきます。 それはペンテコステの日、聖霊を受けたことで彼らのことばや心、生活態度が180度変わったのではないということです。むしろ彼らはその前に変わりつつありました。復活したイエス様に出会ったときにはまだ誤解や偏見があった心が、やがて集まって祈りの生活を続ける中で変えられていきます。そして彼らの変化を福音の証人にふさわしい者として認めてくださったかのように、この日彼らに火のような聖霊が下り、彼らはみことばを伝えていくのです。

 変わることを選びとった者に、神は聖霊を与えてくださったということができるのではないでしょうか。このままでいい、と彼らが願っていたのならば、聖霊が与えられることはなかったでしょう。聖霊は人格を持っておられる神ご自身です。変わりたくないと考えている人の心にむりやり入って人を変えるものではありません。私たちは変わることを恐れます。長く人生を生きていけば生きていくほど、変わりたくない、変えたくないと考えます。そしてその人生が幸いなものとして感じているのであれば、なおさらです。聖書のみことばは正しいと思う、イエス・キリストも正しいと思う、でも私は変わりたくない。このままでよい。もし地上の人生がすべてであればそれでもよいでしょう。しかし聖書は私たちの魂が永遠であると語ります。地上の人生が終わっても、それは終わりではないのです。すべての人はやがて神の前に立ち、地上でのあらゆる行いをさばかれ、滅びへと投げ込まれてしまいます。地上でどんな良い行いを積み重ねたとしても、永遠で無限の神を満足させることはできません。ただひとつの方法を除いては。それがイエス・キリストが私の罪のために身代わりになってくださったと信じることです。
 信じること、それは信じなかった今までの自分から変わることです。変わりたいと願い、一歩を踏み出すことです。永遠のいのちを手に入れるために、一抹の幸せな人生にしがみついている自分を壊していく勇気です。壊すということばは悪い言葉です。しかし壊さなければ、見つからないものがある。捨てなければ、手に入らないものがある。それが救いです。永遠のいのちです。神様があなたに与えたいと願っておられる、本当の幸いな人生です。どうかひとり一人が、神の招きを受け入れることができるように。過去の自分を壊すという恐れを乗り越え、いのちを受け取ってください。
posted by 近 at 19:27 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: