聖書箇所 使徒の働き3章1-10節
1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
今から50年前の1963年のことです。人工衛星によって日本とアメリカのテレビ放送網が繋がりました。つまり、アメリカで今起こっていることを生中継で日本人が見ることができるという画期的な時代が始まったのです。いったいどんな映像を目にすることが出来るのだろう。人々は期待をもってテレビのスイッチをつけたそうです。そしてアメリカから最初に送られてきた映像は何だったでしょうか。年配の方はご存じかもしれません。ケネディ大統領の暗殺事件でした。オープンカーの中で笑顔を振りまく大統領が銃弾を撃ち込まれ、けいれんする姿をテレビカメラは真実に、正確に、しかし残酷に映し出しました。
私たちは聖書を通して同じような経験をすることがあります。いのちのことばとして期待をもって開くのに、そこに書かれてある現実の残酷さが心に迫ってくることがあるのです。今日の聖書箇所も、そのような所から始まります。ペテロとヨハネが神殿へ上っていったその時、2節、「生まれつき足のなえた人が運ばれてきた」。「美しの門という名の宮の門に置いてもらっていた」。「運ばれてきた」「置いてもらっていた」。これらの言葉は私たちの心を締め付けます。まるで物のように運ばれ、石像のようにそこに置かれていた人。そしてそれだけではなく、これらの言葉はそれが習慣的、継続的であったことを意味しています。人として、彼は何を思い、何を感じていたのか。聖書は沈黙しています。ただ彼が何を求めていたのか。それだけははっきりと書いてあります。施し。宮に入る人たちから施しを求め続けて、彼は生きていました。
人に施しを求めるために、運ばれ、置いてもらう生活。彼はその屈辱を考えずにすむために、徹底的に施しを求める生き方に染まろうとしたのかもしれません。彼は、生まれた時から動かない足を見つめながら生きてきました。その動かない足よりも重い病は、彼の心の闇です。そのつきまとう闇を見つめずにすむために、彼は自分の感情を押し殺していきました。希望を持つことのできない世界で、自分の目の前にいる人間は、何かをくれるかくれないかの意味しかない。その日願うべき唯一のことは、その日生きられるだけの糧が得られるかどうか。それ以上のことは何も望まない。望んではいけない。今までの闇、これからの闇を無視するためには、自分自身も闇になるしかない。ひたすら施しを求める人生。その人生にひたすら埋もれていくしかない。
先日、ニュースの記事にこんな見出しがありました。「どうせオレなんてダメな人間・・・・そうつぶやく三歳児」。驚くべきことであり、そして悲しむべきことですが、今や3歳の子どもが「どうせ自分なんか何をやってもダメだ」と保育士につぶやくというのです。そんなとき、保育士はただその子を抱きしめて、「でも先生は、君のことが大好きだよ」と語りかけるしかないといいます。でも子どもがその言葉を聞きたいのは、保育園ではなく家庭でしょう。保育士ではなく、じつの母親から聞きたいはずです。しかしその母親が、何をやらせてもダメねとわが子の心を傷つけていく。そのように言われ続けた子どもは、自分を変えることに対して無気力になります。どうせオレなんて、とつぶやき続けるようになります。ケネディ大統領の暗殺犯として警察が公式に発表したオズワルドという人物も、幼い頃から自尊心を傷つけられてきた人でした。父親を早くに直し、母親からは虐待されながら彼は少年期を過ごしました。一念発起して入隊した軍隊ではいじめに会い、除隊後結婚しましたがその妻は彼の母親と同じように愛情に欠けた女性でした。友人たちの前で彼を侮辱し、罵倒し、過去の失敗をあげつらいました。そしてオズワルドは、自分には持っていない成功、尊敬、富、家族の愛情すべてを持っていた人物、ジョン・F・ケネディ大統領の頭部めがけて二発の銃弾を撃ち込んだのです。
もちろん私たちは彼と違って、ライフルを手にすることはないかもしれません。しかし根っこでは同じではないでしょうか。子どもを虐待したことはないでしょう。大統領に殺意を抱くことはもちろん、じかに会ったこともないでしょう。しかし心の奥底に抱えているものは同じ−−−あきらめと妥協です。同じ過ちを繰り返し、それを変えようとしない。もちろん人は誰もが罪を犯します。しかしその言葉は一歩間違えればただの言い訳になります。確かに私たちは罪を犯す。しかし神は私たちが罪を犯し続けることを望んではおられない。決して望んではおられない。罪と訣別し、立ち上がることを願っておられる。罪を悔い改め、その罪の苦々しさに慣れるのではなくて抵抗するようにと願っておられる。どうせ私なんてとつぶやくのではなく、私を内側から変えてくださる聖霊の力により頼むように願っておられます。
今まで何度となく、自分を変えようとしてきた。でもダメだった。おそらくこの足のなえた人も、かつては自分を変えようとしたかもしれません。しかしそれはことごとく失敗した。今では神殿が参拝者で溢れるタイミングを見計らって、どこからか運ばれて、門に置いてもらう生活の繰り返し。それでいい。それ以上を求めてはいけない。彼の心はそうささやく。でも神のみこころはそうではなかった。ペテロとヨハネを通して、神はこの人に力強くこう命令されたのです。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」。
そのことばは、男の心から一瞬にして闇を吹き飛ばしました。それまで希望を持つことさえ自分に禁じてきたこの男は、自分の中にまったく新しい力がわき起こるのを感じました。なえた足にうそのように力が入る。弱々しかったくるぶしが体重をしっかり支えてくれる。彼は生まれつき走ったこともありません。はねるように立ち上がったこともありません。だが今はそうせずにはいられない。男は闇の中から飛び出した。彼を何十年も苦しめてきた闇はあぶくのように飛び散って、消えてしまった。今まで、彼の前を通り過ぎていった人々が入って行ったその先へ。神殿の中へ。誰にも教えられることのなかった神への賛美が口にこぼれる。口を閉じても、心から溢れてくる。そして口を閉じる必要はない。「ナザレのイエス」。その言葉を何度も繰り返す。ナザレのイエス。ナザレのイエス。ただその名前だけが心にこだまする。ナザレのイエス。この名前が自分を救ってくれた。その賛美は決してとどまることはない。これからも、ずっと。
キリスト教2000年の中で、教会が堕落した時代もありました。カトリックではローマ法王はペテロの後継者とされていますが、中世の時代、ある法王は教会の金庫にあふれる紙幣や貴金属を側近に見せてこう語りかけました。「我々は何と豊かになったのだろう。金銀は私にはない、と言った聖ペテロの時代はもう終わったと思わんかね」。すると側近はこう答えました。「そのとおりです。しかし同時に、ナザレのイエスによって歩け、と言い得た時代も終わりましたな」。
教会が富を得てはならない、力を得てはならないということではありません。しかし富を得た者、力を得た者は必ずそれに依存します。もし私たちがナザレのイエスという言葉を完全なる確信をもって口にしたければ、それが通用しなかったら別の方法でという逃げ道を自ら捨てることが必要です。あなたの人生の中で、これだけは捨てられないというものは何でしょうか。それを思い巡らし、そして選び取るのです。すべてのものが消え去っても、これだけは消えることはない、と確信できるものは何か。願わくは、あなたにとって、それがナザレのイエスでありますように。あなたを救うことのできるただひとつの名前。あなたを完全に救うことの出来るただひとりの救い主。あなたはこのお方を今、持っておられますか。持っていなければ、求めなさい。求めたことがなければ、今、その名を呼びなさい。この生まれつき足のなえた人に起きた奇跡は、私たちの心の中でも起こることです。この人が入っていった神殿の門は、まだ閉じられていません。私たちがこの世の妥協や自分へのあきらめを捨てて、ナザレのイエスの御名を呼び求めるならば、私たちは起き上がることのできなかった絶望から解放されるのです。