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高倉徳太郎の説教論(日本基督教史の提出課題より)

 高倉徳太郎は我が国のプロテスタント史において、「組織的に神学をいとなんだ最初の人である(1)」(堀光男)と評価されている。しかし生前の彼を知る人々においては、彼は神学者、教育者、牧会者である以上に、第一級の説教者であったという印象が強い(2)。高倉の師、植村正久もまた説教の人であった。しかも植村は「訥弁の雄弁」という言葉にあるように、天性の雄弁家であったよりは、不断の修練によって雄弁を博すに至った人物であった。一方高倉の説教は、雄弁は雄弁でも、ある意味「デモーニッシュと呼んでもよい(3)」独特の凄みを持っていたと、加藤常昭氏は述べている。そのような評価の背後にある、高倉の説教論とはいったいどのようなものだったのか。

 私事で恐縮だが、筆者は卒業論文に「緊張の説教論」というテーマを選んだ。それは今日の教会において、弟子訓練やセルチャーチといった組織化が説教よりも優先されている傾向がないかという危惧からである。牧会と説教は統体的でなければならない。牧会は説教の応答であり、説教は牧会の目標を指し示す。しかし今や説教と牧会が切り離され、牧会に様々な手法があてがわれている。そこには人々がもはや説教に「教会成長」の答えを見いだせない(渡辺信夫氏の指摘のごとく、この言葉そのものについても聖書的再考が必要であろう)という、説教の衰退がある事実を、見逃すことができない。聖書の内容そのものがもたらす衝迫の前に説教者も聴衆も緊張を強いられるような説教、人に聞かせるためにではなく神の御前において神にささげる説教、アモスが獅子の咆吼に譬えたがごとき恐ろしい神の叫びを、教会の告白として叫ぶ説教が求められている。
 無論このような指摘にある幾多の問題点は十分承知している。しかし今回、この日本基督教史のレポートのために高倉の思想や生涯をひもといたとき、ルターの言葉を剽窃する罪が許されるならば、「私は知らずして高倉(フス)の弟子であった」という思いを抱かざるを得なかった。一神学生としては傲慢すぎる言葉であることは分かっている。しかし牧会の主体として説教に、それこそ「命」を賭けた一人の言葉には、共感する言葉がそれほど満ち溢れていたのである。彼の愛弟子の一人であった石島三郎氏はこのように述べる。
 生前の高倉を知らず、ただその書きのこされた説教をとおして、力を与えられている人びとがある。しかし、他方には、説教集を手にして、どうしてこのような説教がかつてそんなに会衆を動かしたのであろうかと、いぶかる人たちも無いではない・・・(中略)・・・そこ[講壇]には、生身の人間が立っていたのである。おののき、涙し、さけびつつ、巨厳のごとく、ひとりの生きた人間があった。それは、時として、文字どおり、火を吐くようであった。審きのことばが両刃のように飛びかかり、恵みのことばが杯のふちにあふれた。(4)
石島は同じ評伝の別の箇所で「現代に高倉あらばとねがうことは、時の知恵を欠くものと言わねばならぬ(5)」と戒めているが、あえてそのようなことを書かねばならぬほどに、今日の教会もまた「いのちを与える」(椎名麟三)説教に飢えている。聴衆を笑わせ、心地よくさせてくれるメッセージは多いが、神への畏れと審きを真っ直ぐに語る説教に出会うことは稀である。今日の教会が失ってしまっている、高倉の説教の力はどこにあったのだろうか。
 恐らく高倉の説教観が最も良く表されているものは、「説教と神学」と題された小論であろう。導入において高倉はカトリックの儀式主義とプロテスタントの説教中心の礼拝を対比しているが、ここに説教のサクラメント性を主張するP.T.フォーサイスの影響をみることは容易である。そしてまたこの極めて短い論文の中に、高倉が生涯叫び続け、また実際牧会で行ってきた主張が網羅される。高倉は遊学先のスコットランドの説教壇を振り返り、同じ神学的脆弱を日本の教会の現状にも見ている。
 ともすれば説教が、聴者の漠然たる神秘的な宗教的気分に訴えるのみで、戦うに耐える力ある信仰を創造することができない。たんに気分に訴えるようなセンティメンタルな説教では駄目である。神の言が、客観的真理が、福音が、もっと徹底的に伝えられなければならぬ。説教は気分を目あてにすべきでなく、福音を魂に打ちこむべきである。神の言のみが、徹底したる信仰をつかましてくれる。(6)
大正が昭和へと切り替わるこの時代において、「戦うに耐える力ある信仰」の必要を見抜いていたキリスト者が、当時どれだけいただろうか。日本は幾多の戦争をくぐり抜け、世界の列強に肩を並べるに至っていた。そしてそこに立てられた教会は「青ざめたインテリの個人主義および、福音と教会を「純化」しようとする植村の努力の中にすでにあったところの、抽象的な精神主義への傾向が支配していた。その上、植村の教会的神学は一種の教権主義へと進んでいた(7)」と、堀光男は述べている。その中で高倉は牧会者である以上に預言者的視点をなお有していた。個人主義的信仰と社会的キリスト教へと、キリスト教界が二極分化の道を歩みつつあるその中で、彼は説教を通して、その神学的空白状態に一楔を打たねばならないと確信していたのである。

 従来自我の追求や救贖論理解に傾いていた高倉徳太郎研究において、一石を投じたのは熊野義孝氏の『日本キリスト教神学思想史』(新教出版社、1968年)である。熊野氏は高倉の残している日記などから、彼の中で常に戦わせられてきた自我の葛藤について疑問を投げかけた。紙数の都合上詳細を省かざるを得ないが、熊野氏は高倉の教会形成とその基盤となる神学を「未定型教会論」という極めてシニカルな響きを持つ言葉で定義した。しかし加藤常昭氏は、高倉の説教が札幌北辰教会や戸山、信濃町教会という具体的な牧会の場に根ざし、それらの具体的教会の将来を見据えたものであることを強調する。「この具体的な場所に集まる人々によって聞かれ、またその人々によって形成される教会、それがよし、いかに未定型のものであろうとも、高倉の説教に生かされ、またこれを生かしたのである(8)」。
 私たちはこの指摘を考えるとき、高倉にとって説教が牧会であり、そして牧会が説教であったということを深く痛感する。福音同志会のメンバーでもあった石島氏は、高倉評伝の中であたかも罪責告白のように、この会が結局は高倉を裏切りその死を早めたと言われるその経過を吐露しているが、高倉にとって戸山・信濃町教会、日本神学校、福音同志会、そして『福音と現代』誌などはすべて説教が生みだしたもの、そして同時にこれらから説教が生まれていったという意識を持ち続けたと思う。そしてこれらすべてが他の手に委ねられ、あるいは解体・廃刊の憂き目に会ったとき、そこにあった高倉の絶望は、単なるオーガナイザーとしての失望感の比ではない。己が説教を通して作り上げてきたものの崩壊、それは彼のような説教に命を賭けて生きてきた者にしかわからないものである。それを高倉の弱さとし、彼の自死を弱さの結果と批判することは容易である。しかし今日説教に対してこれほどまでに執着している牧会者はいるだろうか。「みことばに立つ」教会を標榜していながら、みことばの告知である説教よりも、求道者や教会員のニードに対応したプログラムによって教会を建て上げようとしているということはないであろうか。自戒するにし過ぎるということはない。

 高倉の説教論からいつのまにか今日の教会批判になってしまったが、高倉は説教と神学の関係についてこう述べる。
 かくのごとく説教と神学とは、ともに福音と歴史的信仰とに立っているものであって、両者ははなはだ密接なる関係をもっている。真の神学は説教に集注と統一とを与うるものである。説教の中心使命は神学によって訓練せられる・・・(中略)・・・イエス・キリストにおける歴史的啓示、絶対的恩寵としての神の言を洗錬し、統一してくれるものは神学である。神学によって基礎づけられて、福音は何ものをも打ちくだく神の能力となるのである。(9)
ここに高倉が日本で初めて神学をうち立てたと言われるゆえんがある。説教と牧会が統体的なものであることは既に述べた。使い古された譬えではあるが、それは車の両輪に譬えることもできるだろう。しかしその両輪が両輪としての意味をもつためには、駆動機構が必要である。神学はまさにその駆動をもたらす。高倉は生涯を通して「恩寵」を強調した。しかし彼自身もまた、その恩寵概念が決して自己体験や観念的意識に留まることでよしとしていたわけではなく、神学による洗錬・補強が必要なものという認識を持っていた。確かに熊野が疑義を提出したように、高倉の神学は神学と呼ぶには稚拙で、思想もフォーサイス他の輸入神学の域を出なかったかもしれない。また日本の教会に対する現状批判もある意味一面的であり、それゆえに教会全体に及ぶ改革力を有し得なかったという批判もできるだろう。しかし説教には神学が必要であり、そしてそれゆえに教理説教の必要性を主張したという点において、やはり高倉は神学的であったと言えよう。

 ドイツにおける律法主義的説教を批判したM.ヨズティスは、今日の「説教をめぐる作業において決定的に欠けていることは、宗教改革の神学への顧慮である(10)」と述べているが、高倉もまた教会の歴史性を重視し、教会が告白し続けてきた神学と説教との乖離に無頓着でいられなかった。永遠の命か、それとも永遠の死かが決定される、そのような“一期一会”の場において、説教者が神学に聞くことを彼は最重要課題と考えた。正しい神学は正しい聖書理解から生まれる。そして説教の聴聞の場こそが、この聖書が教会員の魂に生きた言葉として伝わっていく正念場であるという意識が、彼の言葉にデモーニッシュと揶揄されるほどの力強さを与えたのではないだろうか。その意味で、「高倉とその教会の特別な地位はなんといっても、まだその形成途上にあった教会の中で、また神学的に不明瞭であった諸教派の中で、彼が教会の真実な姿を望み、それが福音にしたがってどのような姿をとるべきかをみずから問い求めた、という点にあるのである(11)」との堀氏の指摘はまことに妥当なものと言えるであろう。

脚注
(1) 堀光男『日本の教会と信仰告白』(新教出版社、1970年)、59頁。
(2) 加藤常昭『日本の説教者たち−日本キリスト教説教史研究1』(新教出版社、1972年)、305頁以下。
(3) 加藤、前掲書、310頁。
(4) 石島三郎「高倉徳太郎評伝」、高倉徳太郎『福音者の迫力』(教文館、1959年)、104頁。
(5) 石島、前掲書、91頁。
(6) 高倉徳太郎「説教と神学」、『福音者の迫力』、82頁。
(7) 堀、前掲書、60頁。
(8) 加藤、前掲書、305頁。
(9) 高倉、前掲書、83頁。
(10) M.ヨズティス著、加藤常昭訳『現代説教批判−その律法主義を衝く』(日本基督教団出版局、1971年)、209頁。
(11) 堀、前掲書、78頁。
posted by 近 at 11:26 | Comment(2) | 神学校時代のレポート
この記事へのコメント
はじめまして。聞くところによると植村牧師は、説教の時かどうかは忘れましたが女性や子どもを除外するような発言をされたそうですが、本当でしょうか?
Posted by 河童土器亜 at 2013年10月30日 19:13
コメントありがとうございます。植村正久について、ご質問のような発言があったかどうか、わかりませんでした。ただ教会形成の中で女性の働きに大変期待していたことが、彼の牧会した富士見町教会100年史に記録されているということです。http://www.senzoku.org/rekisi.htm
Posted by 管理人 at 2013年10月31日 15:50
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