このラス・シャムラ文書は紀元前14世紀から13世紀に興隆したウガリト王国の歴史を辿ることを可能にした。ウガリト王国は諸外国との国際貿易で潤い、その位置的及び文化的重要性からヒッタイト、エジプトといった強国に挟まれながらも独立を保ち続けた都市国家であった。フランスの考古学チームが発掘を開始した翌年の1930年には、バウアー、ドルム、ヴィロローといった学者たちによって早くも解読された一部が公表された。それによれば、ラス・シャムラ文書にはウガリト王国からさらに数世紀遡るであろう幾つかの叙事詩も含まれていた。それらはバアルとアナテの物語、英雄アカトの伝説、ケレト王の物語などといった名が暫定的に付けられた。また神々の誕生や結婚を物語る小断片なども見つかったが、これらの中で圧倒的に価値が高かったのはバアルやアナテといった神々が登場する一番最初の書である。それによれば、ウガリト神話から継承されていくカナン宗教は典型的な多神教であった。その神々は最高神エール、その配偶者アシェラ、嵐の神バアル、海の神ヤム、死の神モト、性愛と戦争の女神アナトなどであり、これらは自然界の諸々の力を人格化したものであった。だがその神話体系は必ずしも普遍的なものではなく、登場する神々はその性格や行動において一貫性を欠いていることもまた容易に見いだされた。
しかしそれにもかかわらず、これらの叙事詩の文体や用語を観察した多くの研究者たちは、古代イスラエルの詩や散文にこれらのカナン神話が極めて大きな影響を与えており、さらに遡ればアッカドなどの神話もその系譜に連なると結論づけた。例えばわが国の福音派における旧約学の第一人者である津村俊夫氏は、アッカド神話において原初の海を表す象徴的存在であるティアマトがヘブル語の「テホーム」になったという説を紹介しており(1)、また津村氏の師であるゴールドンも「イスラエルの一神教は、その祖先の神々が異教の神々であったために一層注目すべきものなのである。特定の神(Yaw-すなわちYahweh)をパンテオンの頭(エール)と同一視することや、特定の神を神性の本質(エロヒーム)と等しいと考えることによって、ヘブライ人は西洋文明に根をおろしている一神教に到達したのである(2)」と主張する。クレイギによれば詩篇104篇は他のオリエント詩歌にイスラエル独自の神学を表明したものにすぎず、29篇に至ってはバアル賛歌の意図的な模倣であるとされる(3)。
そのような論議は枚挙にいとまがないが、紹介したものに限って反駁するならば、テホームとティアマトでは音声上自然に繋がるものとは到底考えられず、またアッカド神話においては母なるティアマト(原初の塩水)は父なるアプスー(原初の甘水)とセットで捉えられており、前者だけが単独でヘブル語に名を残すというのも奇妙な感を受ける。ゴールドンの主張については明らかにヴェルハウゼンの影響を受けていることがわかるだろう。また訳者である津村氏自身が「いささか大雑把で、そこには少なからずの誇張が見られる(4)」と批判するクレイギの詩篇解釈に対しては、ミラードの以下の説明が代弁してくれる。
イスラエル人作者が、カナン叙事詩に用いられた表現を引き継いだことは十分考えられるが、同様に似た並行表現の跡をたどることのできる、より広範囲のセム語の慣用句の中で各々が精密に吟味される必要がある最も人を夢中にさせるウガリト語とヘブライ語の一致例さえ、厳密には言語学上の現象にすぎず一般的には独立した現象であって、安易に考えられるような、機械的な思想形態の移動まで含むものではない。(5)しかし旧約聖書の詩歌や神学にカナン宗教が直接的な影響を与えてはいなくても、指導者や預言者がこの宗教の非常な危険性を認識し、叫び続けていたことは聖書の記述から明らかである。例えば出エジプト記の23章19節で命じられる「子やぎを、その母親の乳で煮てはならない」という記述も、ラス・シャムラ文書の発見によりそのカナン祭儀における意味が明らかになった。また北イスラエルの歴代の王すべてが、このカナン宗教との混交宗教の虜となり、南ユダにおいても何人かの王はそれに従った。そこまで聖なる民イスラエルを宗教的誘惑に陥れ続けたカナン宗教とは、一体どのような宗教であったのだろうか。
この宗教がイスラエルの唯一神教とはまったく異なる多神教であることは既に述べた。同時にこのカナンの宗教体系には、創造の概念が明らかに欠如していることがその特徴に挙げられる。すべての神々は自然界の現象そのものであり、その自然界を超越している存在は見あたらない。その点において、イスラエルの宗教がこのカナン宗教から徐々に発展していったのだというヴェルハウゼン的発想は万に一つもあり得ない。最高神エールは神々の父ではあるが、自然界すべての父ではなく、その権威は常に流動的でその性格は秩序ではなく混沌を愛する。エール自身が二人の婦人と性交を重ね「暁」と「夕」を創造するという描写はオルブライトをして「古代近東文学の中でもっともあからさまで官能的なもののひとつである(6)」と言わしめたほどの赤裸々な内容である。エールの妻の座を占めているのは豊穣の女神アシェラであるが、箇所によってバアルに敵対したり友好的であったり、行動に一貫性がない。嵐の神バアルと死を司るモトは同じエールから生まれた兄弟であるが不倶戴天の敵として七年間のサイクルで死闘を繰り広げる。バアルの妹であり愛人でもあるアナトは性愛と戦争の女神であるが、その残忍性はあるいは引用に値するかもしれない。
彼女は激しく闘い そして見 殺し そして眺めた。アナトはアシェラ、アシュタロテと混同されて旧約聖書に登場する。バアルの預言者たちが彼らの神の名を叫びながら「彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた」(列王記第一18:28)という描写は、このアナトの性的かつ残忍な性格がエキセントリックに変質していったものなのかもしれない。そしてその性的混濁はバアルが自らの姿を雄牛に変えてこのアナトと交わるという描写で頂点に達する。「すなわち獣姦という行為はヘブライ人の間では死罪に処せらるべきものであるが、カナン人の間には、そこに一種の聖なる意味を認め、肯定されていた(8)」とフックは指摘しているが、これは同時に近親相姦もまたカナン宗教においては聖の概念の下に受け入れられたという事実をも指し示している。さらにオルブライトはこの記事が紀元前13世紀に由来するエジプトの魔術テキストに保存されており、そしてそこでバアルは妹アナトを強姦しその処女を奪っているとも述べる(9)。そのような性格の神が彼らの主神であることに今更ながら驚愕を禁じ得ない。そしてこのバアルはモトに屈服する前、死の野原でも雌牛と交わることによって、牛の形の息子を得ている。こういった描写においても、死の前に生を残すという、本来は聖なる宗教的要素であるはずのものが、獣姦という忌まわしい行為と混同されてしまっているのである。
アナトの腹は笑いでふくれ 心は喜びにみちあふれた。
それは勝利がアナトの手にあったから。
彼女が兵士たちの血の中を 膝までも
戦士たちの血潮の中を 頸までも浸したから。(7)(『バアルとアナト』)
イスラエル人がカナン入国後に直面したのは、こういった神話から来る宗教的堕落そのものであった。礼拝祭儀には人身犠牲と「聖女(ケドシャー)」という名を冠した女性たちによる宗教的売春が伴い、神殿男娼と呼ばれる若い祭司と雌牛によって獣姦が何の躊躇もなく行われた。「そのような礼拝の場面での性行為によって意図されたのは、神々の豊穣を、それゆえ土地の豊饒を手に入れることであった(10)」(クレイギ)。獣姦や神殿娼婦との性交が、バアルとアナト(アシェラ)の性交に見立てられ、それによって土地の豊饒を得ることができるという思想である。人間が擬似行為をなすことによって神の行動をも支配できるという高慢、そして生活努力よりも神の名の下の性交に耽溺する怠慢。彼らの宗教概念の基調をなしていたのは、獣姦、強姦、近親相姦といった狂気であった。
しかし聖書は、神の民があれだけの警告を受けていたにもかかわらず、結局はこの甚だしいカナンの狂気に巻き込まれていったことをはっきりと記している。彼らが事前にモーセを通して神から与えられていた十戒に、殺害や貪りなど人間の倫理性に照らして自明のことがわざわざ禁止されているのは、貪りや性的混濁が美徳とされる、このカナンにおける倫理的状況を前提としているのかもしれない。しかしそれは決してこの古代の異教社会に限ったことではない。資本主義と大量生産が20世紀初頭のアメリカに出現させた大衆消費社会においては浪費が美徳とされ、それは現代に至るまで連綿と続いている。そして今日の世界における道徳や性風俗の混乱は当時のカナンと果たして異なるところがあるだろうか。聖書がアダムとエバの堕落以来一貫して主張する人間の倫理的脆弱性を、歴史もまたこのようにして証明している。その意味で、カナン宗教とは数千年前の狂気であって現代とは無関係であるという抗弁を、聖書とラス・シャムラ文書は決して認めない。これらは真の神によって造られた人間が真の神から目をそむけ、己の神を造りだしそれと共に歩むときに起こる人間性崩壊の悲劇を如実にえぐり出しているのである。
脚注
(1) 津村俊夫「詩篇18:8-20とカナン神話」、『EXEGETICA』第3号(旧約釈義研究会、1992年)、58頁。
(2) C.H.ゴールドン著、高橋正男訳『ウガリト文学と古代世界』(日本基督教団出版局、1976年)、40-41頁。
(3) P.C.クレイギ著、津村俊夫監訳、小板橋又久・池田潤訳『ウガリトと旧約聖書』(教文館、1990年)、「第5章 旧約聖書とウガリト学」を参照。
(4) 津村、前掲書、60頁。
(5) A.R.ミラード「カナン人」、D.J.ワイズマン編、池田裕監訳『旧約聖書時代の諸民族』(日本基督教団出版局、1995年)、90頁。
(6) W.F.オルブライト著、小野寺幸也訳『考古学とイスラエルの宗教』(日本基督教団出版局、1973年)、108頁。
(7) 柴山栄訳「ウガリット」、『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』(筑摩書房、1978年)、285頁。
(8) S.H.フック著、吉田泰訳『オリエント神話と聖書』(山本書店、1967年)、130頁。
(9) オルブライト、前掲書、274-275頁。
(10) クレイギ、前掲書、62頁。