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2013.7.7主日礼拝説教「これが牧会か」(使徒4:13-22)

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聖書箇所 使徒の働き4章13-22節
 13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。14 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。15 彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。16 彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。17 しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」18 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」21 そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。22 この奇蹟によっていやされた男は四十歳余りであった。

 神学校時代、牧会学の授業で、講師がこんなたとえ話をしました。ある旅人が山の中で一人の羊飼いに出会った。彼の後ろにはたくさんの羊が従っていたが、そのうちの何匹かは足を骨折しているようだった。旅人は、骨折した羊さえも見捨てないこの羊飼いは、何と仕事に忠実な人なのだろうと思った。しかし羊飼いの言葉に旅人は驚いた。「この羊たちの足は、私が折ったのです」。目を見開く旅人に、彼は言葉を続ける。「私は、主人からこの群れを守るようにと命じられました。外から襲いかかる狼だけではなく、群れの和を乱そうとする内側の羊からも、この群れを守らなければなりません。だから私はこの羊たちの足を折ったのです」。そして最後に、講師は私たち神学生にこう問いかけました。「これが牧会か」。
 「私の羊を牧しなさい」。イエス・キリストがガリラヤ湖畔でペテロに命じたこの言葉を、すべての牧師は受け継いでいます。しかし「牧会」という言葉が何を意味するのか、恐ろしいほどに定義は定まっていません。ある者は、牧師が病床の信徒を訪問することを牧会と呼びます。しかしある者は信徒自ら病床の信徒を訪問するように訓練することを牧会と呼んでいます。またある者は「牧会」と「説教」を牧師の仕事の二本柱と呼びますが、他のある者は説教も牧会のひとつと言います。要するに、牧会が何を意味するのかは、牧師によって違うのです。神学校で私はこう考えていました。「牧会とは教会を守ること」であると。しかし卒業後に赴任してきた教会には、足を折られたまま、どこかへ去っていった羊たちが大勢いました。彼らはどこへ行ってしまったのか。そのときにあの呼びかけがもう一度こだましました。「これが牧会か」。
 私は、この豊栄教会に二代目牧師として来たことを神に感謝しています。もし自分が開拓した教会であったら、「教会はこうあらねばならない」という理想像にとらわれて、次々と羊の足を折っていたでしょう。事実、豊栄教会に集う羊たちはじつに奔放な足取りで、羊飼いはそのたびにやきもきさせられます。牧者が自分の理想にあてはまらない羊の足の骨を折り続けていけば、静かで従順な群れができあがるでしょう。しかしその群れには喜びがなく、常に緊張が漂います。もし自分が列からはみ出してしまったらすぐさま足の骨を折られてしまう。私たち牧者はやがて大牧者イエスの前に立ち、ゆだねられた羊の群れを返さなければなりません。そのときに主が見られるのは群れの大きさではありません。世にどれだけ貢献したかということでもありません。羊が羊らしく、その群れに安心して身をゆだねられるかということでしょう。これが牧会だと、私は信じています。

 聖書に目をむけてみましょう。ペテロとヨハネは、イエスの名によって生まれつき足のなえた男性を立ち上がらせました。しかしユダヤの最高議会、すなわちサドカイ人やパリサイ人といった宗教指導者たちによって、二人は捕らえられ、そして裁判にかけられました。最高議会は、弟子たちを恐れていました。十字架刑によって確かに息の根をとめたはずのナザレのイエスがまた息を吹き返したからです。いや、吹き返したどころではない、120人の弟子がペンテコステのたった一つの説教で3000人に膨れあがり、さらに前日の説教で男だけで5000人が信じました。何とかこの勢いを封じなければ、この国の安定は失われ、ローマ帝国に取り込まれてしまう。そこで最高議会はペテロとヨハネにこう命じました。 「今後だれにもこの名によって語ってはならない、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない」。
 おそらくほとんどのクリスチャンは、この聖書箇所を自分に適用するとき、ペテロたちの側に自分を置くでしょう。そして世の人々をこの最高議会にあてはめます。その読み方は決して間違ってはいません。私たちはペテロのような使徒たちの宣教によって生まれた弟子のひとりなのですから。しかし聖書は、それを開く者たちの心にいつもチャレンジを与えます。あなたは正しいところにいるよ、よかったねではなく、あなたは本当に正しい側にいるの、もしかしたらそう思い込んでいるということはない、と問いかけます。つまり、今日私がみなさんにおぼえていただきたいのは、私たちの心がこの最高議会の側に近づいているということはないか、ということです。まず牧師である私がこう問われなければなりません。信徒に対する指導や配慮が本当に信徒のためなのか、それとも自己保身をすりかえてはいないだろうか、と。親の立場にある人々は、こう呼びかけられています。わが子に対する様々な言葉が、子のためと言いつつもじつは親の都合丸出しではないか、と。未信者の配偶者をもつ信者に対しては、自分の様々な言葉や態度が、配偶者への愛を源としているのか、それとも心の中では見下しているということはないか。社会人として学校や会社で一日を過ごす信者もまた、みことばと共に働く聖霊に心を探っていただかなければなりません。生徒に対することばが学校や教師の都合優先になっていないか、上司や同僚、部下に対することばが自分をその人よりも優れているというような心になっていないか。

 最高議会に対するペテロとヨハネのことばに注目しましょう。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください」。私たちは正しい、あなたがたは間違っている、そんな単純な物言いではありません。神に聞き従うことと、人に聞き従うことのどちらが神の前に正しいかどうか、あなたがたが自らの良心に聞き、判断してくださいと訴えています。異端の特徴は、判断力を失っていることであると言います。少なくともペテロはこの宗教指導者たちを異端のようには見ていません。信仰と良心に従って判断できるはずという希望を失っていません。ペテロのことばは指導者たちを突き落とすものではなく、その心は謙遜に満ちています。「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」。復活のイエスによって与えられた証人としての使命は、彼を高慢にではなく謙遜にしています。あくまでも見たこと、聞いたことをそのまま伝えていくというその使命に、ただひたすら、彼は忠実であろうとします。そこには自己正当化や、不必要な気負いは見当たりません。
 言葉は心から生まれます。ペテロの言葉は彼の真実な心から生まれています。しかし言葉はしばしば裸の心を覆い隠す鎧となります。言葉を語ることに熱心なものは、心も同じように誠実であるかどうか、神によって探られ、そして判断しなければなりません。彼ら最高議会は自分たちこそがイスラエルの民を導く者であると自負していました。イエスを十字架にかけたのも、自分たちの保身のためにではなく、民のためであると自分に言い聞かせていたことでしょう。そしてそれはじつに私たち自身にもあてはまります。
教会のため、家族のため、と言いながら、自分のことばや態度が本当に神の前に誠実であるのかどうか吟味しようとしません。伝道のため、救いのためと言いながら、目指す所は大会堂の建築しか見えていない、ということはないか。日本のリバイバルのためと言いながら、じつのところは人口比率1%の劣等感にがまんできないだけ、ということはないか。
 しかしペテロとヨハネは聖霊に満たされていました。聖霊は人を謙遜にします。逆に言えば、人の岩よりも頑なな心を砕くのは、みことばと共に働かれる聖霊しかできません。ペテロたちが、この最高議会に対してもこのように謙遜かつ寛容な態度で最後まで接したことは、まさに彼らが聖霊に満たされていた証しです。しかし最高議会の人々は変わりませんでした。彼らはペテロとヨハネの隣に立つ、奇跡の生き証人を目の前にしていました。しかし奇跡は人を驚かせはしても、人を変えることはできません。人を変えるのはただみことばだけです。今、あなたがたが聞いているこの聖書のことばです。自分を変えてほしいと願う者は、信仰をもってみことばを自分自身にあてはめてください。それが牧会です。牧会は牧師の仕事ではありません。牧会は教会の仕事です。牧者が信仰によってみことばを語り、羊がそのみことばを信仰をもって受け入れる時に、そこには喜びがあり、平安があり、謙遜があり、寛容が生まれます。その御霊の実を生み出す教会の営みが牧会です。ともに牧会のわざに励む者となりましょう。それが大牧者イエス・キリストのゆだねられたものなのですから。
posted by 近 at 17:05 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
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