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2013.7.14「みことばを大胆に語らせてください」

聖書箇所 使徒の働き4章23-31節
 23 釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。24 これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。25 あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。26 地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』27 事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油をそそがれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、28 あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました。29 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。30 御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」31 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。
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 終戦直後、並木路子さんの『リンゴの歌』という歌謡曲が大ヒットしました。この歌にはこんなエピソードが残っています。この歌をレコードに吹き込む際、作曲者は並木さんの歌い方に何度もクレームをつけ、「もっと明るく歌うように」と指示しました。しかし彼女は戦争で父親と次兄を失い、さらに終戦半年前の東京大空襲では母を亡くしていました。戦争が終わったとは言ってもとても明るく歌えるような心の状態ではなかった。そのことをきいた作曲者は彼女にこう言ったそうです。「君一人が不幸じゃない」。その言葉を聞いた並木さんは、他の人々に幸せを与えるためにと、あの心躍らせるような明るい歌声が生まれたのだというのです。
 聖書に目を転じてみると、弟子たちもまた心が沈んでも仕方がないような状況の中にありました。教会が聖霊の力を受けてようやく前へ向かって進み出したと思いきや、指導者であるペテロ・ヨハネの捕縛、そしてこれ以上イエスの御名によってみことばを伝えてはならないという条件つきでの釈放。しかし彼らはそこでむしろ神を賛美するのです。その第一声はこうでした。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です」。
 ここで「主よ」と訳されている言葉は、聖書の中では奴隷に対する「主人」として訳されている言葉です。天、地、海、そしてあらゆる被造物を作られた方が私たちの主人である。彼らはそのことを心を一つにして告白します。この全世界の主人のみこころによらなければ、何一つとしてこの世界には起こり得ないという告白です。それは、この世の悪や罪を仕方がないと受け入れるあきらめではありません。私の目にはどれだけ好ましくないことが起ころうとも、この主人のみゆるしがなければ決してあきらめてはならないのだという希望です。神を救い主として信じるということは、同じ神がこの世界のすべてのものの主人であると信じることでもあります。
 先週、ある方が教会に電話をかけてこられました。「ここに書かれている神のわざってどういうことか、簡単に教えてください」と言われました。一瞬何のことかわからなかったのですが、それが教会案内の巻頭に書いてあるメッセージのことだとわかりました。おそらく先月末に水原に配ったトラクトを受け取った方なのでしょう、そこでこう答えました。「神のわざというのは、どんな人も神に愛されていて、不必要な人など決していないという、神様からの呼びかけです」。するとその方はさらにこう聞いてきました。「では、人間は自殺などは決して選んではいけないということですね」。その言葉に「そのとおりです」と答えると、安心したように電話を切られました。
 人は、自分自身が自分の主人であると考えます。だからこそ、自分の命を自分で責任をとって何が悪いと、自殺が肯定されます。しかし神が私の主人であるという信仰が与えられるならば、たとえどんな人生であっても私たちはあきらめるということがなくなります。命が今ある限り、与えられた命を燃やし尽くすという生き方を選びます。終戦直後の混乱の中で「リンゴの歌」が人々を励ましたのは事実ですが、人生に絶望して自ら命を絶った人も多かったこともまた事実です。しかしクリスチャンはそんな人たちに、生きた言葉として「あきらめるな」と叫ぶことができます。「君ひとりが不幸じゃない」という慰めよりも、「あなたは決して不幸ではない」と語りかけることさえできるのです。それは、私たちの主人は私たちを決して見捨てず、むしろすべての苦しみや悲しみをかえって益と変えてくださる方であるからです。

 しかし決して忘れてはなりません。私たちは自分の経験を通して神が私の主人であることを知るのではありません。言い替えるならば、神がすべてを益としてくださるという確信は、経験を通して学ぶのではありません。では、何を通して学ぶのでしょうか。言うまでもなく、みことばを通して学ぶのです。もう一度言いますが、経験ではなく、みことばが私たちに信仰の確信、そして一致を与えます。もし信仰が経験に依存するものであったら、教会はどうなってしまうでしょうか。心をひとつにして声を上げるどころか、そこにはお互いにさばき合うような争いが起こります。私はこういう経験をして、さらに神を知った。あなたも同じ経験をしなければ、信仰が本物にならないよ、と。どうかこの初代教会の人々が、まるでひとりの人のように神に向かって祈った、その祈りに目をとめてください。彼らは創造主への賛美の後、旧約聖書のみことばを告白したのです。そしてそのみことばが、今自分たちの目の前に起きているできごとを指しているのだとも告白しました。祈りの一致は、みことばの一致です。そしてみことばという土台の上に、それぞれの信仰生活における経験が力を与えていくのです。
 経験とは、私たちがこの世界で自分の目で見、手でつかみ、足で踏みしめるものです。その経験をみことばの土台の上に置くとはどういうことでしょうか。それは、あらゆることが神の約束の上に置かれているということなのです。この一週間の中で、あなたはほんとは見たくない、自分や他人、この世のみにくさを見てきたでしょう。ほんとはしたくないことに自分の手を染め、歩きたくない道を歩まされてきたことでしょう。生きるというのはそういうことです。しかしそのすべてが、神のみことばの上に置かれているのです。私にとって望ましくないことさえもが、神の永遠の計画の中に収められています。ではそこでどうするか。
私にとって望ましくないこと、障害、壁、敵、それらを私の前から取り去ってくださいと祈りますか。あるいは私をそれらのものから守ってくださいと願いますか。弟子たちはそうは祈らなかったのです。29節、「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください」。

 彼らは今、敵に囲まれていました。しかしその環境を変えてくださいとは祈りません。敵を天からの火で焼き尽くしてくださいとは祈りません。代わりにこう祈ったのです。天からみことばを語る力を与えてください。天から病をいやす力を与えてください。このしもべたちを通して、イエスの御名による不思議なわざを行わせてください、と。数年前にある牧師がこんな話をしてくださったことを思い出します。その先生の教会に、小さな会社を営んでいる方がおられました。ある日の祈祷会で、彼が祈りの課題があると言ってこう話した。「今、私の会社は経営が困難な状況に陥っています。私の経営感覚では、経営が改善するとは思えなません。でもそんな中だからこそ、人の願いではなく、主の栄光だけが現されるように祈ってください」と。そこでみなで、その課題のとおりに祈った。数ヶ月後、その方が祈祷会で喜んでこう報告した。「先生、感謝します。会社の経営が持ち直してきたのです。神様が祝福してくださったのです」。ところがその時、この先生はこう思ったというのです。「ああ、もったいない」。
 私は「ああ、もったいない」というその牧師の言葉の意味がよくわかりませんでした。お祈りして経営が立ち直ったんだからよかったじゃない、と思いました。しかしその先生とその後も交わりを持つ中で、ようやく悟りました。その教会員は苦境の中で、神の栄光だけが現されるようにと願った。しかし経済的な回復を通して、環境に依存しないまっすぐな信仰が、経営が上向けば祝福というような安っぽいものへと変わってしまったのです。これを「ああ、もったいない」と嘆く信仰は、まさにキリスト教だけでしょう。御利益が満たされることを信心の証しとするこの世の宗教には、決して理解できないことであり、そしてはじめてこの話を聞いたときの私もそんな状態でした。
 しかし真の信仰は、周りの環境を変えてくださいではなく、今ある環境の中で、どうか大胆にみことばを語らせてくださいと願います。なぜなら、あらゆるものは、みことばを通してそこに込められた神の計画が明らかになっていくからです。私たちもそのように祈るべきでしょう。みことばを大胆に語らせてください、と。みことばが力そのものであることを示すために、私たちを通してあなたのいやしと不思議を行わせてください、と。神はそのような願いを喜んで受け入れてくださいます。祈りの家は震い動き、一同は聖霊に満たされ、願いどおりにみことばを大胆に語り出しました。私たちひとり一人も、どのような環境の中にあっても願いはひとつ、大胆にみことばを語らせてくださいと祈りましょう。みことばこそが、あらゆる罪をえぐり出し、悔い改めに導き、救いへと至らせる神の力なのですから。
posted by 近 at 16:19 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
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