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2013.7.21「責任逃れの人々」

聖書箇所 創世記3章1-13節
 1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
 8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

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 今日からちょうど12年前の2001年7月21日、兵庫県の明石市である大惨事が起こりました。おそらく思い出す方もおられるでしょう。12年前の今日、海岸で行われる花火大会を見ようと電車でやってきた数千人の人々が、駅と海岸をつなぐ歩道橋にすし詰めにされました。プラスチックの壁に覆われた歩道橋は蒸し風呂のような状態となりました。やがてそこに押し込められた6000人の群衆が雪崩のように押し倒されていきました。パニックの中で幼子9名と老人2名が亡くなり、重軽傷者は247名を数えました。この事件は「責任」という言葉について、私たちに考えさせています。祭の主催者である明石市は警備会社に任せているから責任はないと言いました。警備会社は、警察に計画をすべて伝えてあり、責任はないと言いました。そして警察は証拠や証言を二転三転させて責任から逃れようとしました。マスコミは三者を批判し、遺族のために真実を明らかにすると息巻きました。しかし数日後に新な事件が起きるともうこの事件からそちらのほうへ移ってしまいました。言うなれば彼らもまた報道の責任から逃げたのです。それだけではありません、遺族に対しては、数え切れない苦情の電話が寄せられました。あんたらのせいで毎年楽しみにしていた花火が金輪際見れんようになった。あんたらが連れてこなきゃ子どもだって死ななかったんやと。これもまたひとつの責任逃れでしょう。11人がなくなったのです。花火と人の命のどちらが重いのか。誰でもわかる計算です。しかし自分のエゴにとらわれて遺族の苦しみを考えようとしない。それは命が互いに寄り添いながら歩んでいる、この世界に対する責任を捨てることです。
 「責任」という日本語を聞いて、心が浮き立つという人はあまりいないでしょう。何しろいきなり「責める」という言葉から始まります。この「責」という言葉からは重責、責務、自責、叱責、そんな重苦しい言葉ばかりが続きます。しかし本来、責任とはこのうえもなく明るい言葉なのです。日本語の「責任」を英語ではレスポンシビリティと言います。レスポンスとアビリティが組み合わされた言葉です。レスポンスは応答や反応、アビリティは能力。意訳すれば「呼びかけに答えていく力」です。まさに今日の聖書から生まれている言葉なのです。神はご自分のかたちに似せて人間を作られたと、創世記の初めにはあります。神はかたちを持たない霊です。にもかかわらず神のかたちに似せて人間が造られたとは、まさにレスポンシビリティー、呼びかけに答えていく力を人間が与えられていたということです。神の期待に答えていく力。神の命令に応答していく力。それが人間に与えられた「責任」の意味です。ですから本来、責任は信頼関係がなければなりたたない言葉です。信頼しているからこそ、責任を与える。信頼しているからこそ、責任に答えようとする。神と人とはそのような信頼関係でつながれていました。それをキリスト教では「神との交わり」と呼びます。しかし人と神の交わりは、人間が神との約束を破るという罪によって切断されてしまいました。それ以来、今日に至るまで、私たち人間は誰であっても罪の影響下にあり、その罪のゆえに人生は苦しみであふれています。この「罪」とは犯罪という意味ではありません。犯罪なら法律で規制できます。人間の努力で押さえることもできます。しかし罪はそんな生やさしいものではありません。法律では規制できず、人間の努力では消し去ることもできないまま、あらゆる人の心の深みでうごめき続けています。これをキリスト教では原罪と呼びます。人間がどんなに抵抗しようとしても、人の力ではどうすることもできないもの、それが罪であり、原罪です。

 懸命に責任逃れをしようとするアダムとエバの姿は、まさしく私であり、あなたであり、すべての人の姿です。聖書は鏡です。それを覗き込む者は何千年前の物語ではなく、今生きている自分自身の姿を見るのです。神の前に立たされて罪を問われたアダムはなんと答えたでしょうか。「あなたが私のそばに置かれたこの女が」とエバを非難するのです。自分も食べたという事実を見つめようとしません。エバもまた同様でした。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです」。神様の命令を破って食べてしまったことに対する悔い改めはありません。アダムとエバも、自分に与えられたレスポンシビリティを踏みつけて、罪を他人に押しつけようとします。
 ここで神が二人に問いかけているのはなぜでしょうか。神はすべてを知っておられるお方です。ふたりから聞き取り調査をする必要などありません。神は彼らに今なお期待し、問いかけておられたのです。罪を犯したのであれば、それを心から悔い改め、神の前に告白することを。今も人々の行動は変わりません。自分の罪に対して、その責任から逃れようとします。その逃げた先に待っているものは何でしょうか。逃げても、逃げても、逃げても、決して逃げられない行き止まりが待っているのです。そこには十字架が立っています。十字架にかけられたイエス・キリストを自分の救い主として信じるか、それとも信じないかという決断をそこでしなければなりません。神の期待から逃げ出してしまったすべての人間に代わって、イエス・キリストは神の期待にすべて答えられました。イエスが十字架ですべての人間の身代わりとして死ぬ以外に、私たちを救い出す方法はないということを神はご存じでした。その過酷な要求に対しても、神のひとり子イエスは逃げ出すことなく、十字架で命を捨てられました。多くの人々は、イエスが十字架の上で死んだとしても私には関係ない、と考えます。そのとおり、自分の罪を顧みることもなく、神から逃げ続ける人々に、イエスの十字架は何の関係もありません。しかし自分の罪を見つめ、その罪が自分自身の責任であることを認めた人々が、このイエス・キリストの十字架が自分の罪のさばきの身代わりであると信じるならば、イエスは必ず救ってくださるのです。

 あなたは自分の本当の心を知っていますか。その心の深みにウジ虫のようにうごめいている罪を見つめていますか。その罪がどうやったら消し去られるのか本当に知りたいとは思いませんか。その答えは十字架にあります。イエスが私のために十字架にかかってくださったということを信じるならば、私たちの罪は消え去り、永遠のさばきは取り去られます。あなたの命ある限り、神はあなたをあきらめません。何度でもあなたに呼びかけて、イエスを信じて永遠のいのちに入るようにと期待しておられます。その呼びかけに応じる力こそレスポンシビリティーと言われる、本当の責任です。どうかイエス・キリストを救い主として受け入れて、まことの命をいただいてください。
posted by 近 at 20:52 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
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