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2013.7.28「一度死に、もう一度生まれよ」

聖書箇所 ヨハネの福音書3章1-16節
 1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
 16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。


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序.裏通りの教会
 誰が言ったか知りませんが、「質屋と教会は裏通りに建てよ」というジョークがあります。今はどうかわかりませんが、昔は質屋に入る人は、人目を気にしながらお店の中に入っていったそうです。駅前の往来の激しい所に質屋ができても、かえって客も入らないと言います。教会も同じなんていうと怒られそうですが、友だちに誘われてとか、ミッションスクールの夏休みの宿題でといった人は別として、自分から教会を訪れる人というのは、やはり何か人に知られたくない悩みを抱えながら来られるということが多いのです。

1. 求道とは、茨の道を歩むためにプライドを捨てること
 ニコデモは、まさに「人に見られたくない」けど、イエス様にお会いするために、裏通りを歩いてきました。聖書はこの人をこう紹介しています。「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った」。なぜ彼は夜、イエス様のもとに来たのでしょうか。おそらく人に見られたくなかったのでしょう。パリサイ人とは、当時のイスラエルの宗教指導者として、民衆の尊敬を集めていました。しかしイエス・キリストは彼らの隠れた高慢を告発し、偽善者と呼びました。だからパリサイ人は、自分たちの立場を脅かす者としてイエスを嫌い、殺意さえも抱きました。しかしこのニコデモは、パリサイ人のひとりでありながら、イエスの語る言葉や奇跡を真剣に受けとめていた一人でした。
 その意味で、ニコデモは、まさに求道者でした。求道者とは何か。それは真理に従うことがこの世ではマイナスであることを知りながらも、真理を求めるゆえに茨の道を踏み分けて来る人のことです。この日本でキリスト教の信仰を持つというのは、茨の道です。職場で孤立します。学校ではじかれます。友人からは距離を置かれます。場合によっては首になります。そしてかつてそうであったように、やがてこの信仰のゆえに命を失うことも起こるでしょう。神棚、仏壇、お祭り、君が代、日の丸、聖書が禁じていること、あるいは命じていることに忠実に生きようとすれば、必ずクリスチャンは周りの人たちと軋轢が生まれます。なぜならクリスチャンは聖書を唯一の行動原理としますが、周りの人はそのまた周りの人たちと同じことをすることが行動原理だからです。だから苦しみます。そのクリスチャンの戦いを見たら、ほとんどの人が好きこのんで同じ生き方をしたいとは思わないでしょう。
 しかし、神はこの世界が造られる前から救われる人を定め、茨の道にひるまない、真の神の民をそれぞれの時代に備えてくださいました。どんなに嘲られ、命さえ失いかねないキリスト者の生き方を見ても、どうしても真理から目を背けられない人たちが備えられているのです。それが求道者です。やがて救われるべき人々です。そしてニコデモがまさにそれであったのです。パリサイ人のリーダーのひとりである彼がイエスに会いに来たことが周囲に知られれば、彼はその地位を失います。彼が人目につかないように夜に来たことはそのためです。
 彼は最初から地位を捨てて昼間堂々と会いに来るということはいたしませんでした。しかし地位よりももっと本質的なものを捨てて、やって来たのです。それはプライドです。すでに幾多の人生経験を経た老人であり、指導者でもあったニコデモが、わずか30歳のイエスを先生と呼び、自ら教えを乞いに来たことはプライドを捨てなくては決してできないことです。救われるためには神を信じなければなりません。そして神を信じるためには、その前にあなたは自分のプライドを捨てなければならないのです。

2. 新しく生まれるためには、一度死ななければならない
 あなたは教会の礼拝に出席して、プライドを傷つけられたことはありますか。もし「ありません」と答えるなら、信者であろうと求道者であろうと、神様はさらにあなたにこう問いかけます。あなたは何を聞きにここにすわっているのかと。私たちは礼拝で何がいただけるのでしょうか。神様に自分の生き方を応援してもらうためではなくて、自分の生き方を打ち砕かれるために来ているのです。願いとしては応援してもらいたくても、結果としては打ち砕かれずにはすまないのです。
 ある人は人目を気にしながら、教会へとやって来ます。自分の人生に突然降りかかってきた問題の答えを求めて、神のことばを聞きにくるのです。しかしそこで聞く神のことばは、その人のプライドを大いに傷つけます。あなたの平和な人生に突然問題が降りかかってきたのではなくて、あなたの今までの人生そのものが問題なんだと言われるのです。聖書がいう「人は生まれながらにして罪人である」というのはそういう意味です。今までまともだと信じて疑わなかった私の人生が、どんなにあなたが努力をしても償うことのできないほど、神を悲しませ、怒らせている罪の繰り返しなのだというのです。イエス様がニコデモに開口一番言われたのはそういうことでした。「まことにまことにあなたに告げます。人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません」。ちょっと軌道修正したり、心がけを変えたりするくらいじゃだめだということです。一度死になさい。そして新しく生まれなさい。あなたが生み出すんじゃなくて、神の御霊によって生まれ変わらせていただきなさい。
 ニコデモは答えます。「人は老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか」。ここで彼が言う「老年」とは年齢ではありません。プライドです。私は今日に至るまでに、どれだけの人生を重ねてきたのか。それを捨てよというのか。これは、お年寄りだけの言葉ではありません。首がようやく据わったばかりの乳児がもししゃべれたらこう言うでしょう。救われるために、今までの5ヶ月間の苦闘の日々を捨てよと言うのか。高校生だったらこう言うでしょう。救われるために、小学校、中学校と積み重ねてきた努力を捨てよと言うのか。大学生も、浪人生も、ヒラも部長も、主婦も老人も、みんながこう言います。救われるために、今まで自分が積み重ねてきた人生を一度殺して、新しく生まれよというのか、と。
 ただの年数だったら簡単に捨てられるはずです。しかしただの年数ではない。一年一年に、一日一日に、私はこれだけがんばってきたのだというプライドが染みこんでいるのです。だから誰もが、ニコデモのようにイエス様の呼びかけにこう答えます。「どうして、そのようなことがあり得るのでしょう」。あなたは私の今までの人生の価値を知らない。この人生の一日一日に誓うが、そんなことは絶対にあり得ない、と。

3. 神が代わりに死んでくださったゆえに私たちは新しく生まれる
 だからこそ、救われることは難しい。完璧な求道者であったニコデモでさえこうなのですから、いったい誰が救われるでしょうか。あなたはプライドを捨てられますか。もしあなたが50年間生きてきたとして、その半世紀はくだらない一日一日の寄せ集めでしかないと言われて納得できますか。人としての私にはできません。そこまでして新しく生まれたくなんかないと思います。でも私たちすべての人間、そのひとり一人の人生は、一人の例外なくその罪によって神を悲しませ、怒らせているのだということを忘れてはなりません。しかし神は私たちがプライドを捨てて神を信じ、罪のゆるしと永遠のいのちをいただくようにと願っておられます。神は、私たち罪人を悲しまれる一方で、私たちが永遠のいのちを持ってほしいと、私たちを愛して愛してやまないお方なのです。今日の聖書箇所の最後で、聖書はこう語っています。「神はじつにそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。
 私たちはプライドにしがみついて一日を何とか歩んでいます。もしプライドで自分を支えることができなかったら生きてはいけないでしょう。しかしプライドにしがみついて生きるよりは、神にしがみついて生きよ。自分の心の罪をプライドで覆い隠して100年生きる望みよりも、新しく生まれ変わることによって永遠のいのちの望みに生きよ。そのために神が与えてくださったのが、神のひとり子、イエス・キリストを私たちの罪のさばきの身代わりとして十字架にかけて殺すということでした。キリストが殺されたことにより私たちは生きられるのです。私たちの代わりにキリストが死んでくださったことにより、そのことを信じる者は死を経験することなく新しく生まれ変わることができるのです。私たちは力も勇気もない者です。自分の力では、ちっぽけなプライドを捨てることさえもできません。しかし救われたいという願いがあるならば、どうか心の中で神を呼び求めてください。神があなたの罪を示し、悔い改めに導いてくださいます。罪を告白して心の中を御霊によってきよめられ、そしてイエス・キリストがその心の中に永遠に住んでくださいます。どうかひとり一人が、自分の心の深みを見つめつつ、救いへと導かれますように。
posted by 近 at 17:56 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
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