最近の記事

2013.8.4「悲憤」

聖書箇所 使徒の働き17章16-34節(当日の週報は<こちら>)
 16 さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。17 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。18 エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。19 そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。20 私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。」21 アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。22 そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。23 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。25 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。26 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。28 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。29 そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。31 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
 32 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言った。33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。34 しかし、彼につき従って信仰に入った人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。

1.悲憤−悲しみと憤り
 2歳の時に高熱にかかり、視力、聴力、言葉を失った、ヘレンケラーをご存じかと思います。彼女の人生が家庭教師のサリバン女史との出会いによって変えられたことは有名な話です。サリバンに出会った頃のヘレンは、物を壊すことだけに喜びを感じるような人間でした。盲目の彼女は、自分の手に何かをつかむとそれが人形であろうと、オイルランプであろうと、何でも容赦なく床にたたきつける。ヘレンのまわりには、彼女の喜びの残骸がいつも散乱していました。サリバンは、ものをたたきつけるというその喜びはうその喜びなのだと教えるために、どうしたか。彼女はあえてヘレンにもう一度人形を与えました。当然のように、ヘレンは人形を床にたたきつけます。そこからです。サリバンはすかさずヘレンの手首をつかみ、手のひらに指でこう書きます。「だめ、だめ、ヘレンはいけない子だ、先生は悲しい」。そしてヘレンの手を自分の顔にさわらせたのです。先生の眉間のしわ、への字型に曲げられた唇。サリバンは、悲しみの表情を指でなぞらせることで、その表情の後ろにある悲しみの感情をヘレンの心に流し込んでいったのです。
 今日の聖書箇所の初めで、「パウロは心に憤りを感じた」と書いてあります。ここで「憤り」と訳されている言葉は、ただの怒りとは違います。ただ激しい怒りという意味でもありません。怒りというよりは悲しみです。聞き慣れない言葉だと思いますが、日本語には「悲憤」という言葉があります。まさに悲しみが昂じて怒りとなる、これがパウロが心に感じた憤りでした。サリバンがヘレンに伝えた「先生は悲しい」。これもまたただの悲しみではなく、悲憤であったことでしょう。本来であれば、人形に話しかけながら、人形の髪の毛を髪を手ぐしでとかしているはずのヘレン。なのに人間としての感情をもたないままに、ただものを壊すことだけに喜びを感じている。人が、人でない姿に対しての怒りこそ悲憤です。その意味で、パウロがアテネ人に抱いた悲憤と、サリバンがヘレンに抱いた悲憤は同じものであったと言えるでしょう。アテネは、当時においても世界最高の知識の都としてほめそやされていました。しかしその知識人の都にあふれていたのは、真の神に対する信仰ではなく、人間が造った偽物の神、つまり偶像でした。知識の都アテネは世界で最も真理に近づく特権を与えられていたはず。そのアテネの人々が、神ならぬ偶像を拝むことで、人としての姿を見失っている。そこにパウロは憤り、すなわち悲憤を感じたのです。

2.日本人の宗教観
 ゴミの不法投棄に困っていた町で、道ばたにあるものを置いたところ、不法投棄が目に見えて少なくなったということが最近のクイズ番組で取り上げられていました。答えは「鳥居」なんですね。実際に映像で見ましたが、道ばたに30cmくらいの赤い鳥居がふたつ並べられていました。多くの日本人は、その知恵に感心するでしょう。しかし私は、クリスチャンには悲憤を感じてほしいと思うのです。私が生まれ育った町にも神社があり、鳥居がありました。いつからこの鳥居があるのと祖父に尋ねると、祖父が私くらいの頃からすでにあったと答えます。そのような鳥居であれば、確かに人は神聖なものを感じるでしょう。しかし昨日まで何もなかった道ばたに、今日は30cmの鳥居が立っている。ここにゴミを捨てたらバチがあたる。それは信仰心ではなく、心の盲目です。人が急いでこしらえて備え付けたことは明白なのに、それでも神がいると考える盲目です。もうひとつ、不法投棄という社会問題に対して、まるでプラモデルを組み立てるかのように鳥居をあつらえてそこに置いた人々の心にも、悲憤をおぼえざるを得ません。神というのはそんな安っぽいものでしょうか。それが私たち日本人の信じている神ですか。彼らはこの行為によって、神が人間を作ったのではなく、人間が神を作っているのだということを自ら証言しているのです。
 悲憤に突き動かされたパウロは22節でこう語りかけます。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております」。アテネの人々が真の神を求めている、宗教心にあつい人々だということをパウロは認めます。私もそうです。日本人が世界一、信仰心にあつい国民であると信じています。問題なのは、アテネ人にしろ、日本人にしろ、彼らの求めている方向が真の神からずれているということなのです。「罪」を意味するギリシャ語「ハマルティア」はもともとは「的はずれ」という意味ですが、まさに偶像礼拝とは、神を求めていながらもその努力がまったく見当違いの方向を向いているということです。アテネ人は、「知られない神に」と刻まれた祭壇をつくり、拝んでいました。日本には「八百万の神」という言葉があります。伊弉諾伊弉冉をはじめとして、実際には八百万もいません。しかし日本人は、新幹線のトンネル工事で巨大な石を掘り起こせばそれにしめ縄を着けて神にしてしまう、そういう的外れの信仰心を持っています。だから八百万でも足りないのです。
 「知られない神に」という祭壇は、アテネだけでなくこの日本でも至る所に見られます。それのどこが悪いのか。はっきり言いましょう、偽の神を作り出しすぎて、まことの神が見えなくなっているのです。家を新築するときには土地の神を静め、道路工事が成功したら掘り出された石を崇め、不法投棄が著しいときは、鳥居をおいて神ここにおわすと通告する。まことの信仰心とは似て非なるもの。人間が神を作り出しているのです。しかしパウロの言葉に耳を傾けてください。真実はむしろ逆なのです。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです」。

3.真の神からの招き
 私たちが神を作ったのではなく、神が私たちを作られたのです。人間が神を刻み、いのちを与えるのではありません。神が人間を土くれから創造し、神の息をふきこんでいのちを与えたのです。それなのに人間はそのことを忘れ、神ではないものを神として拝んでいる。これは私たちの社会でいう浮気ではないですか。神のあふれるほどの愛をもって作られたのに、神など知らないと新たな神、すなわち偶像を作り出し、偶像に愛情を注いでいく。偶像は目に見えるものとは限りません。財産、名声、恋愛経験、人間関係、そのようなものに対する情熱も、りっぱな偶像となり得ます。すべての人間は、自分がその罪を犯し、神様に悲憤を与えているのだと知らなければなりません。パウロを通して語られる、神ご自身の悲憤があなたの心には聞こえるでしょうか。「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます」。
 かつては見過ごしていたのに、なぜ今は態度を変えたのでしょうか。答えは明白です。イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架にかかり、神との関係を回復させる道を開かれたからです。私たちが神に逆らい、悲しませてきた罪の結果は、やがて死後ふりかかる永遠の地獄です。人は暗やみの中、崖の上を歩き続け、その終わりを知ることもなく、罪に対してまったく無力でした。しかしイエス・キリストは私たちを地獄の炎から救い出すために、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかり、死んでくださいました。そして三日目によみがえられたのです。キリストがよみがえられたのは、私たちの罪が確かに清算され、私たちもイエス・キリストと同じようによみがえるという証明なのです。
 アテネの人々は、パウロの話を聞いてもある者はあざ笑い、ある者はまた今度と言って去って行きました。しかしごくわずかでしたが、信じて救われた者たちもいたのです。今日も同じです。とくにこの日本ではクリスチャンの数は1%未満と言われています。大切なのは数字ではありません。何人救われるかという数ではありません。知識を誇っていたアテネ人があざわらうような愚直なメッセージでも、決してうすめることなく語り続けるということです。そうすれば必ず神はデオヌシオやダマリスのような人々をこの日本にも起こしてくださいます。まず、私たちが信じなければなりません。まず私たちが神のことばに信頼しなければなりません。どうか、ひとり一人が神の悲憤をおぼえて、イエス・キリストを救い主として信じましょう。
posted by 近 at 11:11 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: