24 烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。25 あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。26 こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。27 ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。28 しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。30 これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。31 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。32 小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
1.
私は毎月、新発田朝祷会という祈り会に出席しています。今月はちょうど昨日、それがあったのですが、ひとりのクリスチャンの方が自分の人生を振り返ってお話しくださいました。満州で生まれ、その地であの8月15日を迎えました。敗戦で家族も一度ばらばらになり、日本に引き揚げてきたそうです。奥様がクリスチャンであったので結婚後自分も受洗しましたが、あるときには奥様が心の病気になってしまうこともあったといいます。今年77歳、その方がはっきりこう言われました。「私は今が人生で一番幸せです。クリスチャンになって50年間、いつもそう思ってきました」。
私はこれがクリスチャンの特権のひとつだと思います。何か問題が起こると昔はよかった、とか、明日はもっとましだろう、と考えるのではなく、どんな問題のただ中にあっても「今が最高」と言えるということ。それは神がどんなときにも私とともにおられるという信仰から生まれます。私の目には悪く見えても、神の目にはそうではない。私たちの父なる神は、いつも私に人生最高の瞬間を与えてくださっている。イエス様の言葉にも、私たちの神は私たちのお父さんなのだ、だから何も心配するなという約束が込められています。24節、「カラスのことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです」。
カラスは貪欲の象徴です。しかしその貪欲なカラスでさえ神は養ってくださる。さらに27節では別の題材を用いてこう言われます。「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」。
ユリの花ははかなさの象徴です。しかしそのユリの花さえも神はこのように美しく装ってくださる。あなたはカラスよりも、ユリよりも優れたものなのだから、まして神が必要なものを与えてくださらないはずがない。そしてイエス様の結論は31節でこうあります。「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます」。
2.
私が27歳の時に両親から言われたことを思い出します。四年間勤めた公務員を退職し、牧師の道を進みたいと言ったとき、父も母も口を揃えてこう言いました。「おまえ、牧師になりたいと言うけど、それで食べていけるのか。このまま市役所に勤めてたらいいじゃないか」。さすがに両親に対して「下がれサタン」とは言いませんでしたが、大学に報告に行ったときにも事務の方から両親と同じことを言われました。さらにある牧師に相談したときにもこう言われました。「近さん、あの○○教会でしょ?あそこの教会は小さいから、あなたみたいな働き盛りの人がいなくなると困るんじゃないかな」。
当時は牧師なのにこんなことを言うのかとつまずきを感じましたが、今自分が牧師になってみるとそのように心配した先生の気持ちも少しわかるような気がします。しかしわかるというのは、そのことばが正しいという意味ではなく、その言葉の背後にある弱さを理解できるということです。私たちは人生に神のみこころを求めることよりも、自分の必要や生活のほうを優先させてしまう弱さをもっています。そんな私たちにキリストは励まされるのです。32節、「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」。
小さな群れよ、恐れるな、と。確かに私たちはこの世で生きる者です。だから決してこの世と無関係ではいられません。世の中が不景気になってリストラや倒産だとかいう話を聞けば、自分は大丈夫だろうかと、やはり不安になる。イエスさま信じているからいつも平安ですと言いたいけれど、実際そうじゃない時もある。御国を来たらせたまえと祈りつつも、できればその前に日々の糧を与えてくださいと祈りたくなる。そしてイエス様は決して私たちのそのような弱さに同情できないお方ではない。人の子としてご自身、貧しさと弱さを味わわれたイエス・キリストは、私たちのそのような弱さを知っておられます。ですからこう真っ先に言われるのです、恐れるな、と。地上のものに目がいきやすい者よ、恐れるな、と。見えるものに縛られやすい者よ、恐れるな、と。私、キリストから目を離さずに、ただ神の国だけを求めよ。そうすればあなたの必要はすべて満たされる、と語ってくださっているのです。
3.
注目していただきたいのは、私たち一人ひとりに向かって小さな者よ、と言っているのではなく、あえて小さな群れよ、と語りかけられていることです。本来、群というのは生き残るための生活の手段です。例えばアジのような小魚は、群れを作ることで自分たちを一つの巨大な魚に見せて、外敵から身を守ろうとします。それでも弱いのです。群れ、すなわち組織が壊れてしまうのは、その弱さを隠してしまうときです。イエスさまが小さな群れよと言われるのは、私たちは小さな群れであることを恥じることも隠す必要もないということです。
私は高校が敬和学園でした。進学とかにはまったく無縁で、学生はみんなのんびりしていました。敬和のよさは、学生と教師の距離がないことだと思います。別の学校の友人に聞くと、高校の校長や大学の学長は、学生にとっては式典の時くらいにしか会うことがないと言います。しかし敬和では、毎日顔を合わせて、学食でいっしょにご飯とか食べていました。高校も大学も、いわば小さな群れでしたし、今も小さな群れなのですが、それでいいと思うのです。私がこの豊栄キリスト教会から牧師としての招聘が来たときに応じたのも、色々な理由があったのですが、やはり小さな群れであったというのが魅力でした。小さいというのは決して恥ではないし、悪ではないのです。
もちろん現状に満足して終わりとか、変化を嫌うということならば問題でしょう。しかし教会が成長するというのは小さな群れが大きな群れになるということではありません。小さな群れが、それぞれの結びつきを強めていくということです。牧師と信徒が同じからだの一部分として共に成長していくということ。からだは小さいままであったとしても、密度においてより緊密になっていくということ。私はそれを敬和学園で、高校、大学合わせて7年間の人格的触れ合いの中で学びました。
私たち豊栄キリスト教会は確かに小さな群です。一人ひとりはこの世の戦いの中に置かれ、世の荒波の中で翻弄されるような小舟であるかもしれない。その小舟が集まった教会もまた小さく、この世に対して無力さを感じずにはいられない時さえある。しかし私たちにとって最大の励ましは、私たちの父である神が、こんな私たちに「喜んで」御国を与えてくださるということです。父なる神は私たちにしぶしぶ御国を与える方ではない。喜んで御国を与える方だと、与えたくてうずうずしている方だと、イエスさまは証言しておられる。そして神が御国を与えることさえも惜しまれない方だとすれば、私たちの生活に必要なものを喜んで与えてくださらないはずがない。それを受け取るには、イエスを信じる以外に資格も条件もいらない。「あなたの口を大きく開けよ、私がそれを満たそう」という詩篇のみことばの通りに、私たちは期待して口を大きく開ければよいのです。