最近の記事

2013.8.18「悔い改めはただ神に」

いつもご覧いただきありがとうございます。当日の週報はこちら

聖書箇所 詩篇51篇1-13節
指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき
1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。
 それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。
7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。
 私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。
8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。
9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。

10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。


1. 人間しか見えていない人々
 今から68年前の8月17日、つまり終戦の2日後、敗戦処理内閣と呼ばれた東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣が成立しました。東久邇宮という名前が示しているように、総理大臣は皇族でありました。日本の議会史上、唯一の皇族による内閣でした。東久邇宮首相はある有名な言葉を残しました。それは「一億国民総懺悔」という言葉です。この戦争の責任は誰にあるのか。天皇ではない。軍部でもない。すべての国民に戦争の責任がある。力及ばず、戦争に敗れたことをすべての国民が懺悔しなければならないのだ、と。
 一方で現在に目を向けてみると、8月15日に行われた戦没者追悼式では、首相の式辞から「アジア諸国に対する謝罪」の言葉が消えたということが話題になりました。首相を支持する人々はこう言います。すでに戦争の賠償も終わっている。謝罪にしても、68年間にわたって十分謝ってきたではないか。いったいいつまで謝り続ければいいのか、と。
 「一億総懺悔」という言葉と、「もう謝罪はとっくに済んだ」という言論。一見、両者は正反対の方向を向いているように見えます。しかしじつは、このふたつはまったく同じ根っこから出ています。それは「悔い改め」に対する誤解です。どちらも、懺悔、謝罪、悔い改めということを、人間関係の中でしか見ていません。つまり「悔い改め」の方向が常に人間ばかり向いているのです。戦争に負けたときは、天皇を向き、我ら国民一億、力が及ばず申し訳ありませんでした。戦後はアジアの人々を向き、父や祖父がみなさんに悪いことをいたしました、申し訳ありません、と。しかし人間を向いた悔い改めは、いつまで謝らなければならないのか、という思いが出てきます。中国や韓国に対し、これだけ経済援助をし、ここまで発展できたのに、なぜいつまでも謝罪謝罪というのかと腹を立てます。もっとアジアに配慮せよというアメリカに対して、広島長崎にやったことを謝れという思いも出てくるでしょう。それは悔い改めの方向が「人」あるいは人の集合体である「国」しか向いていないからです。しかし聖書で言う「悔い改め」とは何か。それは人に対する謝罪じゃない。国に対する謝罪でもない。悔い改めとは、神に対する謝罪です。人に対する謝罪は、たとえ許すと一度は言われても、後から次々とぶり返してくる。しかし神に対する謝罪は、罪を完全に帳消しにします。懺悔とか謝罪という言葉が、人ではなくて神に向き合うものなのだということを私たちは知らなければなりません。

2. 悔い改めはただ神に
 この詩篇51篇は、古代イスラエルの王ダビデが作ったものと言われています。表題にはその背景がこう記されています。「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」。少し長くなりますが、この出来事について説明したいと思います。ある日、ダビデ王が宮殿の屋上から町を眺めているとき、ある美しい女性の入浴姿に目を奪われました。側近にその女性について尋ねると、ダビデの家来でウリヤという戦士の妻バテ・シェバと答えました。ダビデは彼女が人妻であることを知りながら宮殿へ呼び寄せ、そして彼女と寝ました。やがて彼女は子どもを身ごもりました。ダビデは不倫の結果の妊娠をカモフラージュするために、ウリヤに家に帰って妻と一緒に休むようにと命じます。しかしウリヤは答えました。仲間が命をかけて戦っている中、自分だけ妻と寝床を共にすることなどできません、と。そこでダビデは将軍ヨアブに命じて、ウリヤをわざと最前線に送り、戦死に見せかけて殺します。そして喪が明けると、未亡人バテ・シェバを宮殿へと招き、改めて自分の妻としたのです。
 信仰者ダビデがなぜここまで罪に溺れてしまったのか、聖書は沈黙しています。ただ神の前にはすべてのことが明らかにされていました。神は預言者ナタンをダビデのもとへ送り、彼の罪をすべて露わにされました。この詩篇51篇は、ダビデがその罪の悔い改めを歌った詩です。彼は自分が母の胎にいるときから罪にまみれていたと言います。そしてこの自分をきよくしてくれるのはただ神のあわれみだけだと告白します。私たちはこの詩篇を読んで、違和感をおぼえるかもしれません。なぜならウリヤ、バテ・シェバに対するあれだけの罪を犯していながら、彼らに対する謝罪がどこにも出てこないからです。むしろダビデはこう告白します。4節、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」。

 「私はあなたに、ただあなたに罪を犯した」。しかしダビデが罪を犯したのはむしろウリヤにではないでしょうか。ダビデが真っ先に謝るべきは、彼の欲望の犠牲になった忠臣ウリヤに対してではないでしょうか。私たちがそう考えるのは自然なことです。しかしそれ自体が、私たちすべての人間の抱えている問題をあぶり出しています。つまり、罪を神との関係ではなく、まず自分の人間関係に当てはめてしまうのです。私たちが罪を犯すとき、まず私たちは神を悲しませています。誰にも迷惑をかけていなければよいということではないし、迷惑をかけた人に謝って償いをすればそれでよいということでもありません。生まれながらにしてすべての人間は罪人です。しかしそれは罪の中に転がるのがふさわしいということではありません。神は私たちを何よりもきよく、尊いものとして造ってくださった。罪はその神の愛を踏みにじるものであり、だからこそ罪を犯したとき、私たちは人にではなく神に向き合うべきなのです。さらに言えば、神という途方もなくきよい存在に向き合うときに、はじめて私たちは自分の汚れがわかり、人に対して与えた迷惑の大きさが見えてきます。
 謝るという漢字は、感謝の謝です。ありがとうを意味する中国語「謝々」は謝るという字を二つ重ねます。韓国語のありがとうはカムサハムニダ、とやはり「感謝」が含まれています。日中韓それぞれの国の言葉が、謝ることと感謝することはつながっていることを教えています。なのに、謝っても謝っても私たちの心は感謝で満たされません。謝っても確かに許されたという喜びがありません。謝り続けても、互いに手を取り合って歩んでいけるという確信がありません。それはなぜでしょうか。私たちが本当の神を知らないからです。本当の神だけが与えることのできる、罪が赦された喜びを私たちが経験したことがないからです。私はここで「私たち」という言葉を、日本人だけではなく、それぞれの国民を含めて使っています。偽物の神なら、この日本にも、中国にも、韓国にも山ほどいます。だがそれらの神々は私たちに奉仕やいけにえは要求するが赦しを与えることはできません。とくに日本人にとっては、「さわらぬ神にたたりなし」という言葉に象徴されるのが人と神との関わりのすべてです。極めて消極的です。だが聖書の神は違います。私たちの罪をすべて拭い去り、あなたはきよめられた、と宣言してくださる、積極的なお方です。母の胎にいたときから黒ずんでいたこの心を、そしてこの心ゆえに罪を犯し続ける罪人を、まったく白くしてくださるお方です。

3. 赦された人の変化
 ダビデは神に願います。10節、「神よ。私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください」。この「揺るがない霊」という言葉には特別の意味が込められています。人の心の不確かさと、それとは正反対の、神のみこころの不変です。悔い改めが人間のほうばかりを向いているならば、たとえどんなに言葉を尽くして謝罪を繰り返しても、それはいつも揺れ動く葦のようです。許した、許さない、傷ついた、傷つけられた、そんな応酬がいつまでも続く、灰色の世界です。しかし自分の心に神の許しがはっきりと語られ、確信されるとき、光が内側から漏れ出し、この灰色の世界を覆っていきます。そして大胆にこう告白することさえできるのです。13節、「私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう」。
 人の道に外れた罪を犯したダビデが、ここまで言うことができる、なんと厚かましいと思いますか。決してそうではありません。神に赦された確信が、心を変え、人を変え、言葉を変えていくのです。そして私たちはイエス・キリストが私の罪のために身代わりになって死んでくださったという信仰によって、赦しの確信をいただくことができます。どうか、ひとりでも多くの人々がイエス・キリストを信じ、本当の赦しを得ることができるように。口先だけで赦すのではなく、神が私を赦してくださったように、私も彼らを赦します、そう告白できる喜びをそれぞれの国の人々が体験することで、必ず国の未来は変わっていくことでしょう。神の赦しが御座からあふれて、この国と周りの国々に赦しが満たされていくように祈りましょう。
posted by 近 at 20:45 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: