聖書箇所 ガラテヤ人への手紙2章16-21節
16 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。17 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。18 けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。
1.福音の本質は、己の実績ではなく神のなされた事実を認めること
太夫浜の地に敬和学園高校が建てられたのは、今から45年前、1968年のことです。その10年後に発行された記念誌の中に、初代校長の太田俊雄先生の言葉が掲載されています。
最初から祈り続けて来たことは、もちろん、『敬和学園の教育を助け、導いて下さい』ということだが、『しかし、もし敬和学園の教育が、神の御名を汚し、神の御旨にそむいて、<右や左に曲がる>ようなことがあったら、どうか御名の栄光のために、学園をつぶしてください』と祈ることを忘れていない。現在の小西二巳夫先生は第四代の校長にあたりますが、思いは太田先生と同じでしょう。もしこの学校が右や左に曲がるようなことがあれば、どうかこの学校をつぶしてください、と。もし己の間違いに気づき、それを正すことがそれまでの伝統を否定することになるとしても、それでもゼロ、原点に戻ることができる、それが敬和には今なお生きていると信じます。なぜでしょうか。それは、敬和の教育理念たるキリスト教の信仰がまさにそれだからです。私ではなく、神がここまで導いてくださったと確信しているからこそ、初めからやり直すことを恐れません。
信仰とは何でしょうか。多くの宗教は、献金や伝道、社会奉仕など、それを行うことで心の拠り所を与えようとします。しかしキリスト教は違うのです。人がこれから何を行うかよりも、神がすでにしてくださったことを信仰の中心に置いています。あえて英語で言うならば、「Do」ではなくて「Done」です。あなたが何をするか、あるいは何をしてきたかではなく、神がすでになしとげてくださったことに目をとめよというのが福音の本質です。
2.黒か白かではなく、白の上に黒を積み重ねる危険
今日の聖書箇所は、パウロというクリスチャンの言葉です。彼はかつて熱心なユダヤ教徒でした。律法、つまり旧約聖書に書かれている、神の命令を行うことが救いへの道であると信じていました。そしてイエス・キリストなど、神を自称するペテン師だと考え、クリスチャンたちを迫害していたような人物でした。しかし彼は、復活のイエス・キリストに出会い、今までの自分が間違えていたことに気づくのです。
彼はこう告白します。16節、「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」。人はみな罪人であり、どんなに努力しても律法、つまり神の命令を実行する力がない。だから私にかわってイエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神のみこころに従ってくださった。このイエスを信じることが、救われるための唯一の道なのだ、と。
しかし彼は嘆きます。何を嘆いたのでしょうか。自分のように十字架だけを信じて救われたクリスチャンが、いつのまにか再び律法によって救いを成し遂げようと逆戻りしている姿に嘆いているのです。彼は言います。18節、「けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです」。キリストが十字架で死んでくださったということ、ただそれだけが救いの根源であるのに、多くの人々がそれを忘れてしまっていました。キリストが私のために死んでくださったという、神がなしてくださったことに、彼らは混ぜ物をするようになりました。キリストの十字架も大事だ、だがそれに律法の行いを上乗せしていけば、もっと神を喜ばせるに違いない、それが彼らの過ちです。十字架か、律法かということではない。十字架に加えて、さらに律法を混ぜているのです。
正しいものとまちがったものが横に並んでいれば、人は簡単に気づきます。しかし正しいものの上に、まちがったものが乗っかっているとき、人は容易に気づきません。なぜならば、そのまちがったものを正しいものの一部のように見てしまうからです。私が敬和高校を卒業する間近、1991年の1月です。いわゆる湾岸戦争が起こりました。ある日の礼拝で、当時の教頭先生が短いアナウンスをしました。「昨日の放課後、ある教室の壁に「戦争反対」と書いた大きな紙が貼ってあった。私は校長と相談のうえ、それをはがした」と。そのとき、私たち学生は「どうしてはがすの」と思い、学校側の考えが理解できませんでした。
しかししばらくして気づきました。その約3ヶ月前の1990年11月、敬和は「即位の礼」の中で、戦いを経験していたのです。昭和天皇が崩御し、皇太子が平成天皇として即位しました。政府はこの日を国民の休日とし、ほとんどの学校が自主的に休校しました。しかし敬和は通常授業を行うと内外に宣言し、登校日としました。当日は教職員も学生も緊張した一日を過ごしました。右翼が乗りこんでくるんじゃないかと学生は本気で心配しましたし、実際ローカルのテレビ局が取材に来ました。政教分離が曖昧にされかけたあの日、危険を承知でその陣頭に立った校長、教頭であるからこそ、その三ヶ月後、「戦争反対」という匿名のポスターを容赦なくはがしたのではないかと思います。本当に戦争反対と叫ぶなら、匿名ではなく、また誰も見ていない時に張るのではなく、堂々とみんなの目の前で言い表せ、と。正しいものの上にまちがったものが乗っかっているとき、人は容易に気づかないのです。だからこそ、注意しなければいけません。聖書は、キリストの十字架が、この十字架の死だけが私たちを救う、神の恵みであると語っています。しかし私たちはこの十字架に、人間の努力や行いをぺたぺたと付け加えて、本質を見えなくしてしまうのです。
3.忠実な奉仕や献身も、神と私を引き離す時限爆弾となり得る
私がクリスチャンになったのは高校三年生の時ですが、洗礼を受けた翌週から礼拝の司会と、教会学校の教師をしました。男性が少なかったので仕方がなかったのですが、それは私にとって時限爆弾のようなものでした。最初の数年間は問題ありませんでした。大学生として時間が有り余っていましたし、救われたという感動が心にありましたので、喜んでそれらの奉仕をしていました。教会から期待されているという自負もあったと思います。しかし、大学を卒業して社会人になり、時間に追い立てられながらやっとの思いで司会や教会学校の教師をしている中で、信仰生活にまったく喜びがないことに気づきました。
私にとって、司会や教師という奉仕が、神と私をつなぐ一本の糸でした。十字架でイエスが私のために死んでくださったという事実よりも、私が神に奉仕しているということが教会生活の中心になっていたのです。私が聖書を読むのは神の声を聞くためではなく、聖書朗読をとちらないためでした。祈り、証し、信仰生活のあらゆる部分がそのようなものでした。それは時限爆弾です。はじめは気づかなくても、必ず後で爆発します。それを防ぐための手段は一つです。一生懸命な教会奉仕とか、忠実な礼拝出席という自分の義を十字架から取り外さなければなりません。私が何かをしているから救いが保証されているのではなく、ただキリストの十字架の犠牲のゆえに私は救われたのだと信じるのです。
人生に対する満足感が強いほど、自分の過去を見つめ、悔い改めるのは困難になります。しかし私たちは見つめなければなりません。クリスチャンは自分の信仰生活が十字架という神の事実に寄りかかっているか、それとも私の熱心さや奉仕の蓄積に依存してしまっているかを常に点検すべきです。そしてまだキリストを信じていない人々は、自分が誇りに思っているものが本当に誇るに足るものなのかを点検すべきです。パウロは、ユダヤ人のエリートでした。しかし彼はキリストを知ったとき、自分が造り上げ、積み重ねてきた努力はあたかも糞尿のごとしと言ってのけました。あなたが何をするかでこれからの人生が栄光にあふれるのではありません。すでにキリストがあなたのために、あなたを愛し、あなたの罪の身代わりとして死んでくださったという一度きりの歴史的事実を信じることによって、人生が変わるのです。
パウロはこう告白しました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中に生きているのです」。私もまた、この言葉によって八方ふさがりの中から解放されました。私の人格や実績ではなく、ただキリストが私のために死に、私の中に生きていてくださることだけが私のすべてです。どうかひとり一人が、十字架、ただこれだけにしがみつくことができますように。