聖書箇所 マルコの福音書7章14-23節
14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。15 外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」17 イエスが群衆を離れて、家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。18 イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。19 そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」
1.峻烈な、あまりにも峻烈な聖書の人間観
日本はクリスチャン人口が1%ですが、イエス・キリストご自身に対しては、日本人の多くが知っており、愛の人、ヒューマニストと評価しています。しかし今日の聖書の言葉は、そんな人々のイメージを損ねてしまうものでしょう。「人から出て来るものが、人を汚すものなのです」。キリストの言葉は容赦がありません。「人の内側から出てくるもの」について、耳を覆いたくなるほどにこれでもか、これでもかと挙げていきます。「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ」。
イエスは、あらゆる汚いものが私たちの内側から出てくると言われます。キリストをヒューマニストと称える人々にとっては、つまずき以外の何物でもないでしょう。人々はこう反論します。いや、人間の心はどんな人でも何かよいものをもっているものだ。たとえ心の中の9割くらいは汚いものでも、1割くらいはいいものもある。実際、このような考えがよく表れているのが、芥川龍之介『蜘蛛の糸』でしょう。何人も人を殺した極悪人も、一度だけ蜘蛛を助けたことから、極楽への道が開かれたという物語です。どんな人間にも、1%、いや0.1%でもよいところがある。100%悪人など、この世にはいない。私たち人間は、そのような考え方に大変魅力を感じてしまいます。
しかしここでのイエス様の言葉だけでなく、他の聖書箇所も含めて、聖書が私たちに教えていることは、生まれつきの人間は100%汚れているということなのです。人間が生まれながらの罪人であるというのは、これっぽっちも神を喜ばせることができない者として生まれてくるということなのです。聖書の教えは、人間を最高が最低になったものとして語ります。人間は神によって造られた、世界で最も尊く美しいものでした。しかし誘惑に陥り、神のことばに逆らった結果、世界で最もおぞましく醜いものとなったのです。だから生まれつきの人間が行う、どんな文化的営みも、決して神を喜ばせることはできません。意味のない自己満足の積み重ねであり、すべての人間に待ちうけているのは神のさばき、すなわち永遠の地獄の業火であるというのです。
これは、人々が抱いているキリスト教のイメージとはまったく正反対です。しかし、人間の内側が100%汚いもので満ちているということを受け入れてこそ、はじめてイエス・キリストが私の罪のさばきの身代わりとして死んでくださったという救いの意味がわかるのです。自分はそれほど悪くはないという中途半端な罪の意識のままでは、十字架による救いも中途半端な意味しか持ちません。言葉を変えるならば、自分自身に絶望したことがない人には、神が無条件で救いを与えられたという恵みはわからないのです。
新約聖書の『ローマ人への手紙』3章で、使徒パウロは旧約聖書から引用しながら、やはり生まれながらの人間の姿をこれでもか、これでもかと語ります。
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない」。これらは誰か特定の人物を指している言葉ではありません。生まれながらの罪人である、一人ひとりの人間を指しているのです。この世は、人間についてこのような聖書の主張と対立しています。完全な悪人などひとりもいない、どんな人の中にも美しい花の種があると言います。しかし生まれつきの人間の心の中にあるどんな美しいものも、神を喜ばせることはできないのです。「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」のです。どれだけ心の中から良いものを絞りだしても、出てくるのはイエス様の言われるとおり、貪欲、欺き、好色、その他もろもろです。そのようなものを出したくないと願いつつも、私たちの心からは常に神を悲しませるヘドロのような汚い感情が垂れ流されてしまいます。
「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」
「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
2.自分に対する絶望があってこそ、救いの恵みは確信に至る
あなたはそのような経験をお持ちでしょうか。自分自身に絶望したことがあるでしょうか。誰もが経験しているはずなのです。生きるということは、まさにそのような苦い自分自身と直面することなのです。でも私たちは心の中で99%の絶望を感じても、1%の長所に依り頼むことで自分をごまかします。だってそうしなければ、自分を支えることができないからです。それが悪いことですか?みながそう問うでしょう。でも神様が願っているのは、1%の長所にすがりついてあなたが生きていくことではありません。その1%の自己満足も捨てて、ただ神の限りないあわれみにすがりつくことなのです。
救われる、とはじつにそういうことです。私は何もできない。人の役に立つことも神を喜ばせることもできない。自分自身のありのままの姿に絶望するしかない。その絶望の先に、決して取り去られることのない神の恵みが見えてきます。もしこんな自分でも誰かの役に立っているのだということを人生の拠りどころにしているならば、それさえも失われたとき、生きる価値をどこに見いだすことができるのでしょうか。家族が私を必要としているから私は生きなければならない、という思いで自分を支えているのならば、家族が失われたとき、あるいは家族があなたを必要ないと言ったとき、生きる目的をどこに見いだすのでしょうか。
神の前に、私たちは1%の長所とか存在価値にすがる必要はないのです。私は100%罪人である、誰も私を必要としていないし、何も私は与えることができない。それでも神はあなたを愛している、この事実は決して変わりません。生まれつきのあなたは何ら神を喜ばせることはできません。しかし神は私たちを必要としているから愛しているのではありません。私たちが善き存在であるから愛しているのではありません。頭の先からつま先まで汚れで満ちていたとしても、その人を愛しています。だからこそ、イエス・キリストが罪のさばきの身代わりとして十字架にかかってくださったのです。
私たちが100%罪人であることは、この神の愛を100%受け取ることができるということです。自分は神の前に60点の及第点だと思っている者は、恵みを半分以上も取りこぼしているのです。80点の優等生だと思っている者は20点分しか感謝できないことでしょう。かつての私自身は、自分の罪がよくわからないままにバプテスマを受けた自称99点の人間でした。1点分の感謝を使い切るや教会から離れてしまいました。でもあるときに、自分が0点の人間であることに気づかされました。それは自分自身に絶望したときです。もし救われていなければ、そのときに私は自死を選んでいたのかもしれません。しかし神のあわれみは私を生かしました。
だから今日、イエス様の呼びかけを聞いて、自分の心をもう一度点検してほしいと願うのです。自分が0点なのだということを認めてほしいのです。存在価値や可能性といった言葉でごまかすのではなく、神の目には私は罪人の中の罪人なのだ、だからこそ私のためにイエス様が代わりに死んでくださったのだとわかってほしいのです。
今日の聖書箇所は、もともとは食べ物が人を汚すかという議論から始まっています。イエス様は、外側から入って、人を汚すことのできる物は何もない、と言われました。当時の人々のように、食べ物のせいで汚れた、と主張する人は現代にはいないでしょう。しかし食べ物の代わりに、自分の周りの状況や、他の人々のせいにする人であふれています。家庭の問題を、忙しくて妻や子供たちとの時間がもてないからだ、と仕事のせいにする。自分の性格のゆがみを、育ってきた環境のせいにする。家族のせいにし、上司のせいにし、同僚のせいにし、近所の人のせいにする。本当は自分の心に問題の根本があるのに、それをよけて、あれが悪い、これが悪い、と外に責任を押しつけます。周りの人々や環境を非難する前に、まず自分の心を見つめましょう。自分の心の中にも少しはいいものがある、などと汚れから目をそらすことはやめましょう。100%罪のかたまりであった私たちを救うために、イエス様は死ななければならなかったのです。自分の罪の現実を軽く見積もることは、十字架の意味も薄めてしまうことなのです。私たちを罪のさばきから完全に救い出してくださったキリストを心に受け入れていきましょう。この方が私たちの心の中に住んでくださるとき、私たちは汚泥を垂れ流す人生から、恵みを溢れ出す人生へと変わるのですから。