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2013.9.8「自由の国」

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聖書箇所 使徒の働き4章32-5章11節
 4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
 5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」5 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。6 青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。7 三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずに入って来た。8 ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です」と言った。9 そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」10 すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。入って来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。11 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。

序.
 「私には夢がある」。1963年8月28日、マ−ティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師によって語られた、有名な説教があります。
 私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。
ワシントンDCに集まった25万人の群衆にこの言葉を語ったとき、もしかしたらキング牧師の脳裏にはこの初代教会における、豊かで平和な交わりが浮かんでいたかもしれません。

1.教会は自由の国
 32節にはこうあります。「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた」。二千年前のエルサレムにおいて、世の人が驚かずにはいられない、神の国が誕生していました。奴隷も主人もない世界。異邦人もユダヤ人もない世界。人をわけ隔てるあらゆるものが取り去られた世界。どんな人間も、それこそ肌の色でも、あるいは人格でもなく、ただイエス・キリストを救い主として信じたという一つのことで、あらゆることを分かち合う世界。それが教会でした。歴史家は、この初代教会の姿を近代共産主義と比較して「原始共産主義」と呼びます。しかしマルクスは力によってこれを実現しようとしたが、教会には力はなかった。レーニンは数によってこれを拡大しようとしたが、教会には数はなかった。スターリンは恐怖によってこれを完成しようとしたが、教会にはただ自由だけがあった。信じる者たちは、ただ自発的な意思に基づいて、仲間のためにささげていた。ささげたからといって賞賛がもらえるわけではない。ささげなかったからといって批判されるわけでもない。ただ自発的な意思に基づいて、すべての恵みを共有できる国。それが教会でした。
 その力の源はどこにあったのでしょうか。聖書をそのまま読めば良いのです。続く33節にはこう書いてあります。「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった」。力の源はみことばでした。財産が目減りしていく不安をかき消したのは、やがて天の御国でいただける希望でした。みことばを通して、彼らは地上の財産に比べられない、大きな恵みを与えられていました。使徒たちは力強く証ししました。イエスはよみがえられた。そして私たちも、たとえ死んだとしてもイエスと共によみがえるのだと。地上のものに対する執着を、みことばはイエスに対する執着へと変えました。人種、国籍、職業、血筋、すべての壁がこわされ、そこにあるのはキリストの復活を信じる者というひとつだけ。その恵みへの感謝として、静かに使徒の足もとに財産をささげ、乏しい者がひとりもいない。そこには完全な自由がありました。自分だけが自由であればよいという放縦ではなく、隣人を顧みて、何をすべきかを考えていく自由がありました。

 今日の私たちの教会に、その自由がないとしたら、自由を取り戻す道はただひとつ、みことばを取り戻すということです。はじめてみことばに触れたときのことを思い出しましょう。涙を流して自分の罪を悔いて神のあわれみを求めた夜を思い出しましょう。泣きはらした目で朝日を仰ぎながら、救われた恵みをかみしめた朝を思い出しましょう。そういうことを一切経験したことがないのなら、今一度聖霊が私の心にみことばを突き刺してくださるように乞い願いましょう。
 私たちに自由を与えるのは教会の居心地のよさではありません。教会を自由な国として成長させるのは、滅私奉公のような各人の奮起努力ではありません。良きも悪しきもすべてを分かち合うことのできる自由が、教会を成長させます。この世では何をどれだけ持っているかということが大切にされます。しかし教会ではそのような誇りは何の役にも立ちません。生まれた時からすり込まれてきた価値観がみことばによって砕かれるとき、そこには自由があります。自由は、人を変えます。自由は、変わることを恐れません。真の自由が、このみことばによってもたらされることをおぼえましょう。

2.偽りを許さないことが自由のルール
 しかしサタンは自由を憎みます。自由を奪うためなら、手段を選びません。アナニヤとサッピラは、聖霊の代わりにサタンの声に心を満たしてしまった人々です。彼らはクリスチャンでした。まぎれもなく、信じて心に聖霊を受けていた者たちでした。心に聖霊が住んでくださっていたからこそ、聖霊を欺いたと言われているのです。ペテロは聖霊が天から彼らを見ているとは考えていません。アナニヤたちの中に住んでくださり、共に喜び、共に悲しみ、共にうめいてくださる方であることを知っています。しかし彼らは聖霊が心の内側から語りかける声に耳をふさいでしまったのです。ペテロは何度も繰り返します。「聖霊を欺いた」「神を欺いた」「主の御霊を試みた」と。クリスチャンとして、みなと心と思いをひとつにしていたはずでした。しかし今や御霊を欺き、サタンに心を支配されてしまった。恐ろしいことですが、実際にこういうことが起こるのです。
 アナニヤのしたことは何だったのでしょうか。5章1、2節にはこうあります。「ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」。彼ら夫婦は、自分たちの財産を売りました。しかしその一部を全部と偽って、教会にささげたのです。これは、一般の道徳規準から言えば、死にあたるものではないでしょう。人の財産を処分したわけでも、着服したわけでもない。自分の財産を売り、その一部を残して、残りを全部と言って持って来たのです。誰にも迷惑をかけていません。なぜ彼らは、悔い改めさえ許されない死というさばきを受けなければならなかったのでしょうか。

 私たちはこのことを考えるとき、この世の道徳規準ではなく神の国の生き方を規準にしなければなりません。この世は「うそ」を認める社会です。子どもの嘘を、親は嘘と知りながらも認めることがあります。政治家の嘘を、国民は嘘と知りながらも他に適当な人がいないからという理由で放置します。テレビやインターネットでは嘘を「ネタ」と呼ぶことがあります。人々を楽しませるのであれば、嘘も娯楽の題材として認めます。
 しかし教会では、嘘は認めません。嘘こそ、自由を破壊する最初の呼び水となります。教会を成長させるものは良きも悪しきもすべてを分かち合うことのできる自由だと言いました。教会で嘘が横行するならば、何を分かち合っても疑いが支配します。自由にはルールが必要です。教会での自由のルールは、嘘をつかないということ。嘘で人を惑わすことはできても、神を惑わすことはできません。嘘は、私たちを何よりも愛し、この心の中に喜んで住んでくださるイエスの御霊を悲しませ、裏切ることです。アナニヤ夫妻は、嘘をつくことで自分の中に生きておられる聖霊を裏切ったのです。彼らは夫婦で共謀して、売却代金を偽ってささげました。神の金を盗んだのではなく、うそを言ってささげることで、神の栄光を盗んだのです。

3.ねたみは交わりを破壊する
 創世記の記事を思い出しませんか。アナニヤとサッピラは、まるで蛇の誘惑に陥ったアダムとエバのようです。聖霊による救いの恵みをいただいたのに、彼らの終わりは死体となり、エデンならぬ教会から追放されました。そして彼らの姿はもうひとつ、カインとアベルも連想させます。カインとアベルは共にいけにえをささげましたが、神はアベルのいけにえだけに目をとめられました。怒りによって顔を伏せるカインに神は言われます。「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている」。偽りにまみれたいけにえは、神に受け入れられることはありませんでした。そして彼らを戸口で待ち伏せしていたのは罪ではなく、彼ら自身のなきがらを休む間もなく運んでいく、青年たちであったのです。
 アナニヤとサッピラを真理から偽りへと引きずり下ろしたもの。青年たちの模範となっていた一組のクリスチャン夫婦をサタンの奴隷へと変えてしまったもの。その正体は、カインを殺人へ追いやったのと同じもの、すなわち「ねたみ」です。「慰めの子」バルナバが自分の財産をささげたとき、サタンはこの夫婦にこうささやきました。「あなたがたも、彼以上のささげものをするならば、使徒たちは彼以上にあなたがたに感謝するだろう。あなたがたも、彼に負けないささげものをするならば、教会員たちは彼以上にあなたがたを霊的な者と思うだろう」。
 偽りは教会から真理を追い出そうとし、ねたみは教会の交わりを破壊しようとします。同じ御霊を受け、同じ喜びや苦しみを分かち合ってきた者が集まる教会を回復不可能なまでに分裂させてしまうのが、ねたみです。それは外から入ってくるものではありません。私たちの内側からわいてくるものです。
 サタンは外側から私たちを誘惑しようとします。しかしその悪魔的な破壊力の源は、私たちの中にある偽りやねたみといった悪しきもの。だからこそ私たちは自分の心を点検し、悔い改める勇気を持たなければなりません。ここは自由の国です。イエス・キリストがご自分のいのちによって買い戻してくださった自由の国です。しかしみことばから耳をそむけ、自分の心からわき出る偽りやねたみに身をゆだねるならば、アナニヤ夫妻のように教会と心をひとつにして歩んでいた者でさえ、サタンの片棒担ぎとなってしまうのです。

 敵は私たちが安心していられるほど愚かではありません。もしキング牧師の説教の剽窃が許されるならば、私にも夢があります。それは、やがて来たるべき大いなるさばきの日、この教会の別帳会員を含めて、すべての信徒がひとりの欠けも許すことなく、神の前に立ち、神から「よくやった、よいしもべだ」と声をかけていただくことです。そのために、私はみことばを語り続けます。みことばこそ、サタンの誘惑に打ち勝つことのできる力です。どうかみことばによって自分を変えていくことを恐れないように。自分の心にある偽りやねたみを放置せず、神の前に認めましょう。それが自由の国に生きる民に、今日与えられた神様からのチャレンジです。
posted by 近 at 13:51 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
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