聖書箇所 創世記47章7-10節
7 それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした。8 パロはヤコブに尋ねた。「あなたの年は、幾つになりますか。」9 ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は130年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」10 ヤコブはパロにあいさつして、パロの前を立ち去った。
1. 加齢に対する、和洋の意識差
2005年に全国6000人の男女を対象にあるアンケートがとられました。「あなたは幸福ですか」と自分の幸福感を10点満点で何点なのか、というものでした。その結果、注目すべきというか、悲しむべきというか、ある事実が浮き彫りになりました。日本の高齢者は、欧米諸国の高齢者に比べて、非常に幸福感が低いという現実です。欧米では、年をとることは神の祝福であるという伝統的な考え方があります。ゆっくりと、ゆったりと年をとっていくことは、幸福に近づいていくことなのだと多くの人々が考えています。しかしこの日本のアンケートでは、年をとることに対する否定的な思いが高齢者自身にあるのだということが明らかになりました。あなたは幸福ですかという質問を年齢順にグラフ化したところ、6000人分の回答は30代、40代を頂点とする、きれいな山のかたちを描きました。つまり、低年齢になるほど、そして高年齢になるほど、幸福感がなくなっていくという結果が出たのです。(1)
今日、9月15日は「老人の日」です。いや、明日でしょという人がいるかもしれませんが、明日は「敬老の日」です。敬老の日が9月15日から9月第3月曜になったとき、それまでの「敬老の日」は「老人の日」となり、15日から21日までが「老人週間」となりました。これは国の定めた法律である「老人福祉法」第5条にはっきりと載っています。(2)
「敬老の日」も「老人の日」も「老人週間」もすべて日本だけの制度です。そして日本は、法律レベルでも老人を敬うことを命じている国でもあります。さらに先進国でも類を見ないほど、老齢年金や医療費補助など、高齢者に対して手厚くされています。しかしにもかかわらず、日本の高齢者の多くは自分を幸せであると思えません。年をとることを恐れ、国の施策に文句を言い、高齢者と呼ばれることを嫌います。
私たちはどうでしょうか。「私たち」という言葉には私自身、語弊を感じますが、やがてはその年齢を迎える者として、あえて「私たち」と言いましょう。私たちはどうでしょうか。年をとることを神の祝福と考えているか、それとも年を感じさせない若々しさを神の祝福と考えているか。人はみな老いるのです。どんな人もだんだんと体力が落ち、物忘れがひどくなり、感動が希薄になっていきます。年をとってもそれらをまぬがれることが祝福ではなく、どんな状態であっても、年をとることそのものが神の祝福なのです。
2. 私の人生はわずかで、ふしあわせ
しかし年をとることに祝福を見いだせない私たちの弱さを神様は知っておられます。今日の聖書箇所に出てくるヤコブの言葉に親近感をおぼえるのではないでしょうか。年齢をたずねてきたエジプト王パロの質問に対し、ヤコブはこう答えます。「私のたどった年月は130年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません」。
このときヤコブは130歳、すでに自分の人生の終わりを感じていた頃でした。ヤコブの父イサクは180歳まで生きました。祖父アブラハムは175歳まで生きました。父や祖父と比べれば、「私の齢の年月はわずかです」という言葉は決してまちがってはいません。しかし私たちは130年をわずかとのたまうヤコブの感覚に戸惑いをおぼえることも確かです。
ヤコブが言う「わずか」は次の「ふしあわせで」という言葉とセットで考えなければなりません。今、ヤコブは息子たちの和解を目にしていました。聖書によれば、ヤコブは70人の家族といっしょにエジプトに避難してきたとあります。70人もの家族がお互いに仲良く暮らすことのできる現実を彼は手にしていました。人は、たとえどんなに過去にいやなことがあったとしても、今が幸せであるならば過去の傷や痛みも今の幸せを実らせるためのこやしとして考えます。
しかしヤコブは130年の人生が「わずかで、ふしあわせであった」と告白します。その言葉の意味を正しく理解しなければなりません。彼が「わずか」と言っているのは130年という時間そのものではなく、その130年のあいだにどれだけ神を大切にする時間をもってきたかという反省です。彼が「ふしあわせ」と言っているのは、自分が傷つけ、自分が痛めつけた家族の心を振り返ったとき、それは「ふしあわせ」という言葉を何度繰り返しても足りないのだという後悔です。この130年のあいだに、自分はどれだけ神の思いを探ってきただろうか、どれだけ神を愛していただろうか。今となっては懐かしさがこみあげてくるような過去の日々、だがどれだけ家族の心に見えない傷を与えてきたのだろうか、と。
あなたの今までの人生の中で、自分ではなく神のみこころを思い巡らしてきた時間はどれだけありますか。人に見せるための信仰、人に誇るための祈りではなく、本当に真心から神に仕えてきた瞬間がどれだけありますか。それを正直に見つめたら、それがあまりにもわずかであることに気づくのではないでしょうか。今、あなたの人生はそこそこ幸せであると言えるかもしれません。しかしここに至るまでに、どれだけ夫を傷つけてきたか、妻を傷つけてきたか、子供たちを傷つけてきたか、両親を傷つけてきたか。クリスチャンであれば、その家族には霊の家族である教会も含まれるでしょう。
ヤコブの人生は、振り返ってみると顔から火が出るような恥と偽善の繰り返しでした。生まれる前から、彼は母のお腹の中で双子の兄と争っていました。兄のかかとをつかんで生まれてきた彼は、ヘブル語で「かかと」を意味するアーケーブにちなんでヤコブと名づけられたのです。青年時代、ヤコブは一杯のスープと引き替えに、兄エサウから長男の権利を奪いました。さらにその兄に変装して、兄が受けるべき祝福の言葉を奪いました。兄の復讐を恐れて逃げ込んだ地では、4人の妻とのねじれた結婚、さらに12人の子供たちは4人の母親の代理戦争のようなみにくい争いを繰り広げました。
しかし私たちも決してヤコブから遠く離れてはいません。神を信じなかった頃には自分のために家族を傷つけ、神を信じた後も神のため、教会のためと言いながら結局は家族を傷つける。私たちにもし思い当たるところがあるならば、それは人の心を深みまで探られる聖霊なる神が、あなたを悔い改めへと招いておられるのです。今日の聖書の箇所にはヤコブの消極的な告白だけしかありません。しかし私たちには、このヤコブの家系から生まれてくださった、救い主イエス・キリストがおられます。私たちの途方もない罪のために、命を捨ててくださったイエス・キリストがおられます。あなたの罪を贖うために死んでよみがえってくださったイエス・キリストの前にもう一度ひれ伏すのです。たとえ私たちの罪がどれだけ家庭に暗い影を落としたとしても、救い主イエスに悔い改めるとき、私たちには希望があります。昨日までは自分のために年を重ねていたとしても、今日からは神のために年をかさねていくことができるのです。
3.家族だから
数年前に、神学校時代の友人が牧師をしている首都圏の教会を訪問したことがあります。ちょうど祈祷会の日でした。出席者が私とその友人と一組の老夫婦しかおらず、開拓教会ではないのになぜこんなに少ないんだろうと驚きました。しかしすぐにその理由がわかりました。その老夫婦の男性はかつて別の教会を牧会されていた引退牧師でした。その方が私の友人である牧師の言葉ひとつ一つに大きな声で反応するのです。「聖歌○○番を歌いましょう」というと、「私はこれを歌いたくない!」と叫んだり、「聖書箇所は○○です」というと、「聞こえない!もっと大きい声で言ってくれ!」。まるでだだっ子でした。奥さんがなだめるのですが、まるで効果がない。祈りどころではありません。信徒が来たがらないのもうなずけました。「先生」と呼ばれていた人は引退すると普通の人より厄介だと聞きます。将来の自分もこうなるんだろうかと、目を合わさないように一時間が過ぎるのをひたすら待ちました。そのご夫婦が帰った後、友人に思わず「大変だなあ」と言いました。しかし彼は少し疲れた表情で、だがはっきりとこう答えました。「でも家族だからね」。私は自分の不用意な言葉を恥じると同時に、気のおけない関係である私に対しても「家族だからね」と言った彼の言葉はまちがいなく真実なものだと思いました。
年をとることは、それまで自分を抑えていたプライドや判断力も失ってしまうということです。欧米が「罪の文化」に対して日本は「恥の文化」と言われます。だからこそ日本では、恥を抑えることができなくなる加齢を恐れるのでしょう。しかしどんなに年をとっても、教会は家族なのです。体力も、プライドも、判断力も、それまで頼みにしていたあらゆるものを失っても、教会は家族なのです。傷を受けた、与えたということがどれだけあったとしても、教会は家族なのです。
私たちは、老いも若きも、信者も求道者も、男性も女性も、決して見捨てることのない家族です。今日ここにいることは幸いです、でも明日はもっと神に近づくことができる幸いがあります。ヤコブはパロの謁見のあと、さらに13年生きたと聖書の別のところには書いてあります。彼の人生は、彼自身が考えていたよりも、まだまだ続きました。私たちは、家族としてもっと近しくなることができます。年をとるということは生きていることの証しです。年をとるということは、じっくり見るとお互いに老けたなァと肩をたたき合うことでもあります。年をとるということは、愛する人を天に送り出す日が近づくことでもあります。でも、それもまた祝福でしょう。永遠のいのちが約束されているからこそ、地上で年をとっていくことは神に近づく恵みなのです。加齢さえもこの上ない幸福と告白できる、神の家族の恵みに感謝して歩んでいきたいと願います。
注:
(1)大阪大学 社会経済学研究所「なぜあなたは不幸なのか」
http://www.iser.osaka-u.ac.jp/rcbe/gyoseki/fukou.pdf
(2)老人福祉法 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S38/S38HO133.html
第五条 国民の間に広く老人の福祉についての関心と理解を深めるとともに、老人に対し自らの生活の向上に努める意欲を促すため、老人の日及び老人週間を設ける。
2 老人の日は九月十五日とし、老人週間は同日から同月二十一日までとする。
3 国は、老人の日においてその趣旨にふさわしい事業を実施するよう努めるものとし、国及び地方公共団体は、老人週間において老人の団体その他の者によつてその趣旨にふさわしい行事が実施されるよう奨励しなければならない。