聖書箇所 使徒の働き5章12-16節
12 また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。13 ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。14 そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。15 ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。16 また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。
1.信仰は「自由闊達にして愉快なる」もの
先日開催された宣教区講演会では、介護福祉がご専門の牧師先生が講師でした。メッセージの中で、ご自分が介護に携わった方々のエピソードが述べられ、そのひとりがあのソニーの元会長、盛田昭夫氏であったそうです。ソニーの歴史は終戦直後に設立された「東京通信工業」という小さな町工場に始まります。盛田氏と井深 大の二人は、ソニー設立にあたって、会社の目的を8箇条にまとめました。その一番目はこう始まります。「一、真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」。※
12年前、まだ神学生であった私がこの豊栄教会を初めて訪れたとき、私が感じたのがまさにこの「自由闊達」でした。その頃の教会をおぼえている信徒の中には、眉をしかめる方もいるかもしれません。教会から牧師夫妻が去り、信徒も何人か離れていった中で、とても自由闊達どころではないと言うでしょう。実際、あの無牧時代から何年もたってから、ある信徒がこう言ったのを思い出します。「教会に牧師がいないというのがこれほどみじめなのかと、あの時初めてわかりました」。でも私はなぜか、この教会の空気に初めて触れたとき、そこで「自由闊達」ということばを思い浮かべたのです。だからこそ、後に自分が豊栄の牧師にどうかと打診されたとき、すでに受け入れる決心ができていました。
「自由闊達」とは、悲しみや痛みのないところにしか生まれないのでしょうか。決してそうではありません。「闊達」という言葉を辞書で引くと、「心が大きく、小さな物事にこだわらないさま」(三省堂 大辞林)とあります。私たちの心は決して大きくはありません。しかしそれでも闊達が生み出されるとすれば、それは神の大きさに目をとめるとき以外にはあり得ません。私の心や教会に生じた痛みがどんなに大きくても、神はそれらよりもはるかに大きいということに気づくとき、私たちは闊達を手に入れることができます。12年前、豊栄の教会から感じていたものはその闊達です。どれだけの痛みを経験していたとしても、神の測りがたいみこころにしがみついていこうとする思いです。そしてそれこそが、初代教会から私たちが連綿と引き継いできたものです。
昔、あるテレビ局のキャッチコピーに「楽しくなければテレビじゃない」というものがありました。お笑い番組ばかり放送しているようなテレビ局は困りますが、私もまた、信仰というのは楽しいものではないかと思います。本当は「楽しくなければ信仰じゃない」と言いたいところではありますが、「楽しい」という言葉と「〜ねばならない」という言葉をくっつけるのは矛盾じみていますので、「楽しくなければ」ではなく、ただ単純に「楽しいもの」と言います。ソニーに怒られそうですが、「自由闊達にして愉快なる」という言葉は、教会が先に打ち出すべきであったと思っています。信仰は自由闊達にして愉快なるものです。歯をくいしばって、信仰生活がんばるぞという考え方もありますが、「患難さえも喜んでいます」(ロマ5:3)というパウロのことばは、忍耐さえも愉快なるものということを教えられます。
信仰によって、私たちはいろいろなものを失います。信仰とは、神様からアレモコレモいただけるではなくて、むしろアレカコレカ、取捨選択を迫られる生活です。永遠のいのちというたった一つのものを手に入れるために、それ以外のものを手離すことを求められます。でもそれはつらいことではなく、喜びなのです。手に入れたもののあまりのすばらしさのゆえに、他のすべてをちりあくたのように思っている、とパウロが言ったとおりです(ピリ3:8)。どうして喜ばないでいられましょうか。どうして愉快を感じないでいられましょうか。信仰は重荷ではありません。重荷を感じているとすれば、背負うべきものをどこかで取り違えたのです。
イエスは「すべて疲れた者、重荷を負っている者はわたしのところに来なさい、あなたがたを休ませてあげよう」と語った後、こう言われました。「わたしの重荷は負いやすく、わたしの荷は軽い」と。イエスは私たちに何一つ、義務を負わせません。礼拝も、献金も、祈りも、聖書も、伝道も、すべて強制ではありません。でも私たちは、礼拝しなければ生きられないのです。自分自身を知るとき、神に感謝せずにはいられません。そのとき心には感謝とともにささげる思いが生まれます。罪に流される心は、聖書を読み、祈ることなしには満たされません。信仰の喜びを知ったとき、伝えずにはいられません。
2.加わろうとしなかったのに、増えていった?
聖書が教えている初代教会の姿は、まさに「自由闊達にして愉快なる理想工場」そのものでした。いやしを求める人々は、通りかかるペテロの影にでも触れれば直ると、病人をベッドに寝かせたまま大通りへ運び出しました。こんなのは迷信だ、信仰じゃないととがめる人は誰もいませんでした。自由闊達にして愉快なる理想工場の始まりです。教会は工場じゃない、魂を扱う所だと言われるでしょう。しかし言うなれば人生の再生工場です。この世界から不良品として扱われ、俺なんか、私なんか誰も必要としていないと自らを責め続ける人々がこの工場にやってきます。イエス・キリストと出会い、罪を悔い改め、永遠のいのちを受け入れ、まったく別の生き方へと生まれ変わっていきます。私も、その再生工場にひょんなことから導かれた者です。あなたもそうではないでしょうか。あるいはそうなりたいと願っているのではないでしょうか。二千年前も同じです。まわりの人々は、葛藤と憧れがごっちゃになりながら教会を見つめていました。
13節、14節にはこうあります。「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった」。いったいどっちなんだと思いませんか。まわりの人々は教会に加わろうとしなかったのに、どうしてますます増えていった、と書かれているのでしょうか。しかしこの一見矛盾じみた記録こそ、二千年前も現代も変わらない、教会のまわりの人々の姿です。本当は救われたいのです。ソロモンの廊は、教会を敵視している祭司や律法学者の目と鼻の先にありました。いわば敵のど真ん中で、それでも自由闊達、愉快な交わりの中に生きているクリスチャンの姿に、まわりの人々は憧れを抱いていました。しかしその交わりに入るためには、捨てなければなりません。今まで自分が誇りにしてきたもの。これからも頼っていかなければならない、財産、力、人間関係、ありとあらゆるものを。
人々はクリスチャンの生き方を尊敬しています。自分も、そのように生きられるものならば生きてみたいと考えています。でもそのために捨てなければならないものを考えると、それができないのです。失うものの大きさを考えると、それは自分の今までの人生を否定するのと同じこと。だから、誰ひとりとして、尊敬はしていてもその交わりに入ってこようとしません。しかしそれでも、求める者には与えられるのです。捜し続ける者には見つかります。門をたたき続ける者には開かれます(マタ7:7以下)。
13、14節のみことばは、矛盾ではありません。「だれひとりとして加わろうとはしなかった」という人間的なあきらめの中でも、あきらめたようであきらめなかった人々を、神が毎日与え続けてくださったという歴史的事実です。男であろうが女であろうが、金持ちであろうが貧者であろうが、健常者であろうが障がい者であろうが、神のご計画に従って確かに人々が召され続けていったのです。
私たちは実際にそれを経験した者です。初めて教会に来たときのことを思い出してみましょう。説教はむずかしい、賛美歌は歌えない、なんか落ち着かない。それでも神はご計画に従って私たちを招き、救い、変えてくださったのです。私たちの知識や情熱ではありません。ただ神の恵みとあわれみのゆえです。それを経験した私たちがいのちのみことばを人々に語っていくとき、そこで初めていやしのみわざが人寄せパンダではなくていのちのみわざとして栄光を現していくのです。
3.心を一つにして
今日の聖書箇所の中で大事なキーワードは12節後半、「みなは一つ心になって」という言葉です。心がひとつにされることと、自由闊達は決して矛盾しません。心が一つにされるとは、それぞれの個性を認めながら、それぞれのやり方で神を思いっきり喜ばせていくことを考えるということです。この『使徒の働き』の4章29節には、教会がやはり心をひとつにして祈った言葉がこう記録されています。
「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください」。いやしも、奇跡も、神は決してとどめることはありません。しかしそこにみことばが語られないのであれば、人々を一時的にひきつけるだけのものとなってしまいます。神はそのような空しいものにご自分の栄光を表すことはありません。もしいやされたいのであれば、その前にまずみことばを聞くことを求めなさい。病める人をいやしたいのであれば、みことばを語らせてくださいと祈りなさい。すべてはみことばを聞くことから始まります。神のみことばは真理です。そして真理は私たちを自由にします。十字架の血潮をもって私たちに自由闊達を得させてくださり、一つとしてくださるイエス・キリストの御名をあがめつつ、祈ります。
※http://www.sony.co.jp/SonyInfo/CorporateInfo/History/prospectus.html