来週の日曜日、教会バザーを計画しています。今日も午後、教会員で準備に励みました。しかしこのような外部への働きかけとともに、自分たちの魂の養いを大切にしなければならない
聖書箇所 第一サムエル22章1-10節
1 ダビデはそこを去って、アドラムのほら穴に避難した。彼の兄弟たちや、彼の父の家のみなの者が、これを聞いて、そのダビデのところに下って来た。2 また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。3 ダビデはそこからモアブのミツパに行き、モアブの王に言った。「神が私にどんなことをされるかわかるまで、どうか、私の父と母とを出て来させて、あなたがたといっしょにおらせてください。」4 こうしてダビデが両親をモアブの王の前に連れて来たので、両親は、ダビデが要害にいる間、王のもとに住んだ。5 そのころ、預言者ガドはダビデに言った。「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」そこでダビデは出て、ハレテの森へ行った。
6 サウルは、ダビデおよび彼とともにいる者たちが見つかった、ということを聞いた。そのとき、サウルはギブアにある高台の柳の木の下で、槍を手にしてすわっていた。彼の家来たちはみな、彼のそばに立っていた。7 サウルは、そばに立っている家来たちに言った。「聞け。ベニヤミン人。エッサイの子が、おまえたち全部に畑やぶどう畑をくれ、おまえたち全部を千人隊の長、百人隊の長にするであろうか。8 それなのに、おまえたちはみな、私に謀反を企てている。きょうのように、息子がエッサイの子と契約を結んだことも私の耳に入れず、息子が私のあのしもべを私に、はむかわせるようにしたことも、私の耳に入れず、だれも私のことを思って心を痛めない。」9 すると、サウルの家来のそばに立っていたエドム人ドエグが答えて言った。「私は、エッサイの子が、ノブのアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました。10 アヒメレクは彼のために【主】に伺って、彼に食料を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました。」
序.
神学校卒業間際、ある先輩がこんなアドバイスをくださいました。「同じ教団だけではなく、他の教団の牧師とも親しくなりなさい。私たち牧師は同業者ではない。同労者なのだ」。同業者と同労者の違いは何でしょうか。牧師も人の子ですから、A牧師の説教はすばらしいとか、B教会は礼拝出席者が多いとか聞くと、ねたみが起こります。そのねたみに聖霊が気づかせてくださるたびに、悔い改めていくならば教会の健全さは保たれていくのですが、牧師が隣の芝生を見てあせり、信徒の尻をはたくようになると、そこで教会がおかしくなっていく。同じ教会同士を同業者、ライバルと見てしまうとそうなるでしょう。しかし隣の教会の祝福は自分の教会の祝福でもある、それはすべての教会がひとつの神のからだなのだという同労者意識を忘れてはいけない、それを忘れてしまったとき、牧師がねたみに支配され、教会が混乱してしまうのです。
1.
今日、私たちが聖書を通して出会う人物は、イスラエル最初の王、サウルです。彼は神に立てられた王でした。しかしサウルは神のみこころに忠実に従おうとしませんでした。そこで神はサウルに代わって王となるべきものとしてダビデを選びます。この1節からは、ダビデを支持する人々が増え、サウルの立場を脅かし始める状況が描かれます。そのあせりの中でサウルはねたみに支配されてしまいます。7、8節をもう一度お読みします。
「聞け。ベニヤミン人。エッサイの子が、おまえたち全部に畑やぶどう畑をくれ、おまえたち全部を千人隊の長、百人隊の長にするであろうか。それなのに、おまえたちはみな、私に謀反を企てている。きょうのように、息子がエッサイの子と契約を結んだことも私の耳に入れず、息子が私のあのしもべを私に、はむかわせるようにしたことも、私の耳に入れず、だれも私のことを思って心を痛めない。」
「だれも私のことを思って心を痛めない」。このような孤独感を、私たちは自分自身も経験した叫びとして思い出すのではないでしょうか。ここでまず私たちは、孤独と孤独感の違いを知らなければなりません。孤独は人を生かしますが、孤独感は人を殺します。孤独の中で自分を見つめ、それを文学やスポーツに開花させた人々が多くいます。孤独を経験したことがない人は、一人になることを極端に恐れ、他人の言葉や態度に左右されてしまいます。じつは孤独感は孤独から生まれてくるのではありません。孤独感は高慢から生まれます。この叫びに至るまでのサウルのことばを意訳するならばこのようになるでしょう。「お前たちはだれのおかげで生活していられると思っているんだ。おれのおかげじゃないか」。
高慢は孤独感を生み出し、孤独感は高慢をさらに高ぶらせます。そして両者は人生を破壊する闇の力となり、サウルは政治家としての判断力も失ってしまいます。サウルはドエグという家来が語ったノブの町の祭司アヒメレクへの中傷をすべて事実として受けとめてしまいました。そして自分への反逆は神への反逆であるとして、ノブの町のあらゆる者たちを虐殺するのです。
2.
高慢と孤独感が神の前に取り扱われないままだと、クリスチャンであっても自らを傷つけてしまいます。ある日、突然ある人が教会に来なくなる。あんなに喜んで歩んでいたのに、と残された人々に痛みを与えます。私自身、そのような経験をしたことがありました。それは、熱心に奉仕している背後でその人が感じているむなしさを人々が気づかない、気づいてくれないという孤独感でした。私は自分がそういう状態にあるときに、この箇所を読みました。その時に思ったのは、ここには自分がいる、孤独の中にある人間がいる。でもサウルと私が違う点がある。それは、サウルはこうやって自分の気持ちをおおっぴらに言えるが、私は言えない。言えば、人々をつまずかせる。教会学校では子どもたちの教師。教会の中では何年も信仰を重ねてきた。今さらこの孤独感を口に出すことはできない。
まあ、何という高慢であったかと思うのです。まるで自分の両腕で神の教会を支えているかのような高慢です。今思うと、なぜそこまで気張っていたのだろうかと思います。孤独感に襲われたときにはさびしいと言い、疲労感にさいなまされたときには疲れましたと言えばいい。でも言えない。なぜ「言えない」のか。教会の雰囲気がそれを言い出しにくいということもあります。しかしもっと大きな原因は、やはり自分の中にあると言わざるを得ない。私と神様の問題であって、教会には関係ない。言っても変わらないし、かえって変な風に思われるかもしれない。それは配慮という仮面をかぶった高慢です。
信仰生活って何でしょうか。もし信仰生活が神と自分との関係だけだったら、教会はいりません。信仰が神と自分との一本の糸だったら、キリスト教のシンボルである十字架から、私たちは横木を取り外すべきです。たしかに孤独感をを教会の中で感じることもあるでしょう。私ばかりががんばっている。しかしその思いをすでにイエス・キリストが天の右の座で耳を傾け、とりなしておられます。そしてさらに大切なことは、すべてを知っておられる主は、あなたの思いも知っておられる。教会のからだの中で隠すことはないとおっしゃってくださっているのです。
信仰生活とは、プロの将棋さしの戦いのように、一手間違えたら負けが決まってしまうようなものではありません。常に悩み、常にもがき、常に失敗します。それでも失敗を恐れないのは、どんな人間的失敗も、神様はその刈り取りをすでに十字架で引き受けてくださったからです。キリストの十字架が私たちの中に刻まれているのに、なぜ体面やプライドを気にする必要があるのか。そのことをかつての私は気づくべきでした。私たちは自分が神さまを支えている、神を養っているかのような勘違いをします。しかし神は教会を通して私たちを教えてくださいます。神に仕える喜び。苦しみを口に出し、何でも分かち合うことのできる交わり。自分にできることをさせてもらおうという謙遜。そして私たちのすぐそばに、信仰の友、初めに紹介した先輩牧師の言葉を借りるならば「同労者」を置いてくださり、私たちを支えておられるのです。
3.
私たちは、毎週この時期にバザーを行っています。バザーだけではなく、教会はほぼ一年中、いろいろな活動で溢れています。それらは大きな恵みをもたらすものではありますが、その準備の背後で霊的な養いがなおざりにならないように気をつけなければなりません。バザー、音楽祭、クリスマス、イースター、ひとつ一つの活動を準備していく中で、かえって教会の中でみことばがわきに追いやられ、みことばの分かち合いよりも奉仕に時間が割かれていくということが起こります。まずみことばで養われてこそ、私たちは直接伝道ではない活動に対しても神のみわざを期待することができるのです。
バザーの出品物の値付けをしたり、会場を整えたりするのに何時間も費やすとすれば、それ以上の時間を祈りとみことばに費やしていくことを忘れてはなりません。祈りなくても、みことばなくても、教会に人がたくさん来ることはあります。しかしその場合、教会員自身のたましいが枯れてしまい、疲れだけが残ります。疲れは、人の判断力を失わせ、高ぶりを引き起こします。だからこそ、私たちはこれからの一週間、自分自身の心に毎日、最上の祈りとみことばの時を与えてたましいを養うことを忘れないでいきましょう。今日の説教だけで一週間を乗り切ることができると思わないでください。みなさんが毎日聖書を読み、祈り続ける中で、神様は地域の人々よりも私たちに大きな祝福を備えてくださるでしょう。