この日曜日は、正午から恒例の教会バザーでした。小さな会堂を最大限有効に活用するため、講壇や聖卓も礼拝前から別室へ動かして、必死のバザーです。今回は新来会者を意識しての伝道メッセージとなっています。何か感じたことがありましたら、コメントをお寄せください。
なお今週の週報はこちらです。
聖書箇所 イザヤ43章4節、ローマ5章6-8節
4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
先週、ある会議に参加するために東京まで往復したとき、新幹線にあった雑誌の記事に興味をひかれました。みなさんは、青木ヶ原樹海というのをご存じでしょうか。富士山の麓に広がる、鬱蒼とした巨大な森、一度迷ったら絶対に出てこられない、自殺の有名スポット・・・と、そう思っていました。ところがなんと、この樹海巡りツアーが大人気、専門のガイドもいるというのです。樹海なんか巡り歩いて、何が楽しいのか、と一瞬呆れました。しかし記事を読み進めると、感動が起こりました。私は今まで、富士の樹海は数万年かけて生まれた密林のようなところだと思っていました。ところが、じつはそうではない。1200年前の平安時代、富士山が大噴火を起こしました。そのとき噴き出した膨大な溶岩が固まった後、風で飛ばされてきた種が芽を出し、成長して、今の鬱蒼とした森になったというのです。つまり、樹海の地面は柔らかい土ではなくて溶岩なのです。その記事には、樹海の木々の写真も載っていきました。根を堅い溶岩に伸ばすことができず倒れていく木、その腐った木からまた芽が吹き出て、根っこを露出しながら、絡み合うように木が立っている写真でした。樹海ツアーに参加した人は、みなこの木の前で立ち止まるそうです。土がほとんどない中で、それでも生きようとしている木の姿。土がなければ根は伸ばせない、そんな常識を跳ね返し、生きよう生きようとしているその姿に自分の姿を重ね合わせるそうです。この記事を読み終えた後、こう思わされました。人生がうまくいかず、死に場所を求めて樹海に入っていった人は多いだろう、だがそこでこの木の姿を見て、また生きる気力を取り戻した人々も多くいるのではないか、と。
山形新幹線の終点に「新庄」という駅があります。新幹線は終点ですが、在来線は新庄の先も続いています。昔ある男性が、新庄を通る列車に乗っていました。旅行ではなくて、死ぬ場所を探していたのです。新庄駅に近づいたとき、「つぎはしんじょう」という車内アナウンスが「次は死んじゃおう」と聞こえたそうです。そこで彼は新庄駅で降りて、死に場所を探しました。ところが新庄の人はみないい人で、どこに行ってもにこやかに挨拶してくるので、なかなか死ぬチャンスがない。ひたすら歩いていると、いつのまにか隣町にまで来てしまった。死ぬつもりだったがお腹もすいた、教会の看板を見つけて休ませてもらった。その時に牧師がイエス様の話をしてくれて、死ぬのもばからしくなっていた彼は、家に帰ってやり直そうと電車に乗りました。電車が動き出してしばらくすると、また「つぎは新庄」という同じアナウンスが聞こえてきた。でも今度は「死んじゃおう」とは聞こえなかったのです。何と聞こえたと思いますか。「次は信じよう」。
死を願って樹海に入った人は、溶岩の上に根を伸ばして生きていこうとする木々を見て、命の価値を知ります。駅名が死に場所への招きに聞こえた人は、命の価値を知ったときに、同じ駅名がむしろ信仰への招きに聞こえました。神は自然や言葉を通して「命の価値」を私たちに伝えます。「命の価値」、それを神はイザヤの口を通しても語られました。わたしの目には、あなたは高価で尊いものなのだ、と。ただ高価なのではない。イエス・キリストが身代わりになって死んでくださったほど、高価なものなのだ。ただ尊いのではない。父なる神がひとり子イエスを十字架につけるほど、尊いものなのだ、と。パウロもローマ人への手紙の中でこう言っています。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました」。強い者、敬虔な者のために死んでくださったのではありません。弱い者、不敬虔な者のためにイエスは死んでくださいました。私たちの最初の先祖、アダムとエバが罪を犯したときから、すべての人間はひとりの例外なく、自分を傷つけ、人を傷つけ、お互いに傷つけ合って生きています。神は私たちが自分の価値に気づくことを願っておられます。隣人の価値に気づくことを願っておられます。イエス・キリストを信じて、いのちの価値を取り戻してほしいと願っておられます。
7年後のオリンピックは東京に決まりましたが、来年の冬期オリンピックはロシアでソチで行われます。ギリシャのアテネにある聖火は、ロシア国内を周りながらソチにまで運ばれます。先月、その聖火がリレーの最中で消えてしまうというアクシデントが起こりました。ところが本当のアクシデントはそこから始まったのです。火が消えたことに気づいたランナーが、警備員たちに目配せしました。すると、なんとひとりの警備員が懐からライターを取り出して、火をつけてしまったのです。万一火が消えたときは、あらかじめランタンに移し換えておいた聖火を使うきまりなのですが、この警備員はそれを知らなかったのです。もし日本でこれが起きたら、アテネに戻ってやり直しとなるでしょうが、大国ロシアですのでそのままリレーを継続ということのようです。しかし私たちは彼らの失敗を笑えません。聖火よりもはるかに尊い火が私たちの中にゆだねられ、燃えていることに気づかないのが私たちの社会です。命のともしびの主権は神にあると認めず、命の価値を自分勝手に解釈し、それを吹き消してしまう、それが自殺者だけでも年間3万人を数える日本の国です。自分の価値がわかりません。ほかの人の価値もわかろうともしません。能力、実績、人柄、見た目で判断します。「何もできない」「生きていてもしょうがない」などと簡単に否定します。
しかし聖書は、私たちにこう力強く宣言します。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」。この「ことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられる」と。人間は自分の価値がわからないだけでなく、自分が罪人であることもわかりません。私たちは世界で最も尊いものです。尊いからこそ、罪を犯し続けている人生から、救われなければならないのです。ある有名な神学者はこう言いました。「すべての人間は罪の奴隷である。しかしただの奴隷ではない。奴隷におとしめられた、王子であり王女なのだ」と。神はご自分の王子、王女が、奴隷のままにとどまっていることを指をくわえて見てはいられません。だからこそ、イエス・キリストがいのちを捨ててくださったのです。罪の奴隷が、王子、王女として神の子どもの権利を取り戻すために。しかしたとえキリストが何万、何億回十字架の上で死んでくださったとしても、あなたが信じなければ意味はありません。キリストによって私は罪の奴隷から確かに解放されたのだ、とあなた自身が口で告白しなければ、罪という主人はあなたを手離そうとはしないでしょう。だからこそ今日、このように叫びましょう。私はイエス・キリストによって救われた。キリストの十字架が私を罪の奴隷から解放したのだ、と。