今日の礼拝は、体調不良のために欠席される方が多くおられました。寒暖の差が激しく、体調を崩しやすい時期です。どうぞご自愛ください。
今週の週報はこちらです。
聖書箇所 使徒の働き5章29-39節b
29 ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。30 私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。31 そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」 33 彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。34 ところが、すべての人に尊敬されている律法学者で、ガマリエルというパリサイ人が議会の中に立ち、使徒たちをしばらく外に出させるように命じた。35 それから、議員たちに向かってこう言った。「イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。36 というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。37 その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。38 そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。39 しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」
1.福音に中立はない
神学生時代に奉仕していた千葉の教会に、テレース・ホリスベルガという婦人宣教師がおられました。もう高齢でしたが、スイス出身で、かつては佐渡で伝道されていたそうです。私が新潟出身ということで、格別可愛がっていただきました。あるとき、テレース先生に佐渡での伝道について尋ねたことがあります。すると、ちょっと困った顔をして、「不思議でした」と言うのです。「佐渡の人たち、いい人ばかりで、仲良くなって教会にお誘いすると、みんな笑顔で「はい、また今度」と言いました。やった、今度来てくれるんだと思って待つのですが、でも誰も来てくれませんでした。本当に佐渡の人たち、不思議です」。いや、千葉も同じでしょと心の中で思いましたが、日本人にとって「また今度」はOKではなくて拒絶です。「行きません」とはっきり言うと相手に失礼、だから「また今度」とやんわりとお断り。しかしその丁寧な物腰と、内心の拒絶というギャップは、外国人からは不思議に見られるか、あるいは嘘つきとさえ言われることもあります。
今日登場するガマリエルの言葉も、みなさんの目には非常に好ましく聞こえるかもしれません。実際、この説得によって、使徒たちに対するサドカイ人たちの怒りはやわらげられました。しかし結果の好ましさに惑わされて、ガマリエルの言葉の本質を見落とさないでほしいのです。このガマリエルの言葉は、特に私たち日本人にとっては過ちが気づきにくいものに思われます。なぜなら、彼が日本人の好む、白黒はっきりしない、いわゆる「中立」の立場をとっているからです。しかし今日の説教題のとおり、福音に中立はないのです。福音とは何でしょうか。使徒たちは福音をこう証言しました。あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、神がよみがえらせてくださったのだ、と。福音は私たちに教えてくれます。あなたは罪人である。しかしイエスを信じるならば罪赦され、永遠の命が与えられると。福音を受け入れるならば、永遠のいのちがあります。福音を拒絶するならば、永遠の滅びが待っています。ではその中間はあるのでしょうか。福音を選ぶことなく、かといって拒絶することもない。多くの日本人がそのような態度をとっています。キリスト教はましな宗教だと思う、でも私にはイエス・キリストは必要ない。人々はそのような賛成もしないが反対もしないという態度を中立と呼びます。しかし福音に限っては、それは中立とは言えないのです。信じれば命です。信じなければ死です。中立はどこにありますか。何もしないことが中立ですか。何も関わらないことが中立ですか。福音を聞きながら何もしないこと、何も決断しないこと、それは「中立」というオブラートでくるんだ拒絶に他なりません。福音に対して笑顔を浮かべながら「また今度」と答えたその時が、もしかしたら永遠のいのちを得る最後の機会となっているのかもしれないのです。
2.成長は真理のバロメータではない
ある日、エホバの証人が教会を訪れ、私にこう言ってきたことがありました。「あなたがたクリスチャンは自分たちが真理で、エホバの証人を異端だと言います。でも教会が真理ならば、もっと多くの人が集まるんじゃないですか。むしろ私たちのほうが熱心に伝道し、たくさんの人が集まっています。これは私たちが異端ではなく、真理である証拠ではありませんか」。みなさんがこう質問されたらどう答えますか。
じつはこれがガマリエルの論法です。どんな働きであれ、それが神から出たものであれば成長する、しかしもし神から出たものでないならば自滅する。神が生み出したものかどうかは、その発展の姿でわかるというのです。しかしどれだけ一生懸命かとか、どれだけ大きなビジョンを持っているかとか、どれだけ多くの人が集まっているかといったものは、決してそれが神から生まれたものだという証しにはなりません。ヨハネ福音書の中にあるこの言葉をおぼえるべきでしょう。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって、生まれたのである」(ヨハネ1:12,13)。
ガマリエルの論法は、正論のようでいて、非常に危険な考えです。彼のことばによれば、たとえ聖書に反したことを教えている団体であったとしても、それがある期間存続するならば、神からきたものだということになってしまいます。
マーク・トウェインというアメリカの作家が、こんな言葉を残しています。「真理がぐずぐずと靴のひもを結んでいる間に、偽りは世界を何周もかけまわる」。この世界では、真理であるはずの教会がいつまでも貧弱で、偽りであるはずの異端が王座でふんぞり返っているということが起こります。罪に満ちた世界は、真理を決して受け入れようとはしません。しかしそれでもみことばを蒔き続けるならば、必ずわずかであってもそれに答える者たちが起こされていくのです。みことばに答える者とは、どういう者たちでしょうか。この真理に立って生きることが、どれだけ迫害と困難に溢れた道であると知っていながらも、ただ神の子どもとされた感謝のゆえに、イエス・キリストに従い続ける者たちです。
3.信じるとは、イエスにすべてを差し出し、ゆだねること
かつてイエスが弟子たちにはっきりと宣言されたことは、このお方と、このお方が語る福音に対して中立はあり得ないということでした。マタイ福音書12章30節で、主はこう語られています。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です」。ひどい言葉に聞こえるかもしれません。しかしまさに福音とは、キリストについて命を得るか、キリストをまたいで死を選ぶかのどちらかしかないのです。どうかイエスのことばをもうひとつ、心に刻みつけてください。「人はたとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得があるだろうか」。
今日、私たちは聖餐式を過ごしました。私はこの聖餐式のたびに、「まだ洗礼を受けていない方は聖餐を受けることはひかえるべきであります」と言わなければならないことに苦しさを感じます。実際、今、教会に定期的に集っておられる求道者の方々は、心の中ではすでにイエスを信じておられるでしょう。でも洗礼を受けることにためらいを持っている。それは洗礼を受けて、クリスチャンになるということが自分の今の生活や家族関係にひびを与えるのではないか、と不安を感じておられるからではないでしょうか。かつて私は、そのような方々に対して「洗礼を受ければそういった不安は自ずと解消されます」と言っていました。しかし今はこう言うべきだと思っています。「そのような不安があるならば、洗礼を受けるべきではありません。しかしあなたがキリストの十字架の意味を心から知って、キリストの愛に答えるためならば、すべてをひきかえにしてもかまわない」と言うときが必ず来ることを信じています」と。
信仰は強制ではありません。強制されて継続できるほど、私たちの信仰生活は楽な道ではありません。しかしどうか今日の説教題を心に刻みつけてください。福音に中立はない、ということを。今日一日が与えられていることは当然のことではなく、神の忍耐とあわれみのゆえです。いつまでもどっちつかずによろめいていることはできません。ヨハネの黙示録の中には、永遠の滅びへと引きずられていく人々のリストが出て来ます。そのリストの最初に出てくるのは「おくびょうな人々」です。何に対して臆病だったのか。それは、真理を知りながら、真理をつかみとることに臆病であったに他なりません。あなたはそうであってはならないのです。ガマリエルは真理を捜し求める学者でした。しかし彼は使徒の証言を聞いても、イエスをチゥダやユダのような反乱者に続く失敗者にしか考えることができませんでした。真理のそばにまで近づきながら、真理をつかみ取ることに失敗したのです。あなたはそうであってはならないのです。説教のはじめに、かつて佐渡におられた婦人宣教師の話をしました。ほとんどの人々が「また今度」とやんわりと拒絶する中で、彼女は失望しました。しかし人口わずか数万のこの佐渡が島から、私の知っているだけでも片手に余る献身者を生み出しています。亀田の松下紀美子夫人、新発田の故本間進牧師、ときどき来られる北見ミチ姉妹の娘さんは現在福岡めぐみ教会の牧師夫人をされています。他にも名前を挙げることができますが、ここではその余裕はありません。ただ言えるのは、私たちが福音の招きに答えるならば、想像もできないような新しい人生が生まれるということです。あなたには、臆病な人々でも、ガマリエルのようでもなく、このように福音によって永遠のいのちを得た人となってほしいのです。私は、求道者の方々が、キリストのためにすべてをゆだねます、と告白することを待ち続けます。