今日の午後、教会有志が区民音楽祭に出場しました。練習不足が心配されましたが、結果はみごと優勝!
ただし私の心の中で、ですが。(実際の音楽祭には順位づけはありません)
会場は撮影が禁止されていたので、今年は映像に残せませんでした。残念。
今週の週報はこちらです。
聖書箇所 使徒の働き5章39c-42節
39c 彼らは彼に説得され、40 使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。41 そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。42 そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。
序.
かつて、アメリカのプロバスケ、いわゆるNBAにアーヴィン・ジョンソンという選手がいました。彼は別名「マジック・ジョンソン」と呼ばれるほどすばらしいプレイで観客を魅了しましたが、突然悲劇に見舞われます。健康診断で、ある深刻な病気が発見され、このまま選手としてプレイすれば命に関わると宣告されたのです。彼の古くからの友人でもある医者は「プレイしたら死んじゃうよ」と、率直に伝えました。しかしマジック・ジョンソンはこう答えたそうです。「プレイしなかったら、死んじゃうよ」。もし自分からバスケをとったら、何が残る?もう死んでいるのと同じなんだ、と。そして私たちにとって福音とはまさにそういうものではないでしょうか。もし私から福音をとったら、何が残る?もう私たちは、福音が与えてくれる命のすばらしさを知ってしまった。もし福音が奪われたら、命はあっても生きてはいない、まさに生ける屍でしかない。使徒たちを生かしていたのは、この福音という内に燃える炎であったことを私たちはおぼえていきたいと思うのです。彼らはむちで打たれても、言葉で脅かされても、「イエスの名によって語ること」を決して捨てなかった。むしろ、イエスの名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜んだのです。彼らの心には、かつてイエスが語ってくださったこの約束が響いていました。「わたしのために迫害されるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから」(マタ5:11、12)。イエスの名において苦しむなら、その苦しみはかえって喜びとなります。心の中には福音が燃えさかり、私たちに与えられている聖霊ご自身が、油となってさらに燃えさかっていきます。これが、クリスチャンにとって「生きる」ということです。「語ったら死んじゃうよ」と脅迫、もしくは忠告されたなら、こう答えるべきでしょう。「語らなかったら死んじゃうよ」。クリスチャンというのは、他のどんなものよりも福音を喜んでいる人々のことです。福音のすばらしさのゆえに、この秘密を語らずにはいられない人々です。あなたはどうでしょうか。
1.毎日
42節をご覧ください。「そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた」。使徒たちが教えてくれた模範を、三つにわけて学んでいきましょう。まず第一は、「毎日」という言葉です。あなたの毎日がどんな毎日であろうと、福音を語る機会を求めてください。朝起きたら、まずこう祈ってください。「私が今日関わる人に福音が語れるように、どうかあなたの知恵を与え、その人の心を開いてください」と。そんな小さな祈りであっても、毎日続けるのと続けないのとでは確実に変わっていきます。語るのは私たちです、しかし人の心を開くのは神様です。福音を語っても、相手が変わらないように見えるでしょう。それでもよいのです。人を変えるのは人ではなく、神ご自身です。ただ私たちは語ること、語り続けることに力を注いでいけばよいのです。
私が市役所をやめる前の半年間の話です。役所では、よく起案書というのを作ります。私の仕事で言えば、「新潟市老人クラブ連合会に補助金を支出してよろしいでしょうか」というお決まりの文書を作って、「よろしい」というハンコをもらうために、市役所中を回ります。まず係長、次に課長、さらに部長、予算が大きいと局長と回っていき、さらに財政課の担当者、係長、課長補佐、課長と回って、それが終わったら会計課の担当者、うんぬんとスタンプラリーの旅に出ます。しかしそれまでは私の起案書をろくに見もしないでハンコを押していた部長が、私がやめるまでの半年、ハンコを押しながら様々な話をしてくれるようになりました。自分が他の人に避けられているのではないかという不安。自分が子どもの頃に病気になり、それ以来植え付けられた死への恐れ。宗教とは無縁な生活をしてきたが、キリスト教では死をどのように教えているのか、という質問。私は彼を救いへ導くことはできませんでしたが、こう思いました。なんて自分はもったいない時間を過ごしてきたのか。自分が牧師になると聞いて、自分の内側を話してくれた人がいた。もし私がキリストを証しすることをもっと求めていたら、私はやめ行く者としてではなく、ここにとどまる者としてもっと語ることができたのに。世の人々のほとんどは福音に無関心です。しかしたとえわずかであっても求める者がいることは間違いないのです。
2.宮や家々で教え
第2は、「宮や家々で教え」ということです。「宮」だけではないし、「家々」だけでもない。宮も家々もバランスよく、宣教の場としていました。言葉で言うのは簡単ですが、これは実際、驚くべきことです。宮にいるのは誰でしょうか。彼らを脅かしてきた祭司たちです。彼らが遠巻きににらみつける視線を感じながら、使徒たちは語っていたのでしょうか。いや、むしろ拳を握りしめている祭司たちに向かって、使徒たちは大胆にイエスは主であると語り続けたのです。福音は、仲良しクラブの合い言葉ではありません。求める者にも求めない者にも、友好的な者にも、敵対的な者にも、同じように語られていくのが福音です。もし私たちが、素直に話を聞いてくれる人にだけ語ろうとしているならば、それは福音ではありません。人の選り好みは、福音の力をかえって鈍らせます。喜んで耳を傾ける者にも、耳をふさいで聞こうとしない者にも福音は届けられなければなりません。その担い手が私たちです。信じる、信じないは先ほど言ったように、ただ神のなさることです。「家々で教え」という言葉を聞くときに、ある人々は「家の教会」という言葉を連想するかもしれません。しかし聖書で「家の教会」という言葉が出てくるとき、それは目に見える建物ではなく、目に見えない恵みを強調しています。宮で語られ、宮で聞いたことを宮だけの恵みにとどめないで、信者たちはそれを自宅へと持ち帰り、自宅でもみことばを聞き、分かち合ったということです。「毎日」が時間的領域を指すとすれば、「宮や家々で」は空間的領域を指します。24時間、360度、彼らはみことばの恵みをかみしめて生きていました。
3.イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた
最後に、彼らは「イエスがキリストであることを宣べ伝え続け」ました。神学生のとき、奉仕教会の特別伝道集会で救いの証しをする機会が与えられました。それに先立ち、牧師に証しの原稿を見ていただきました。読み終えたあと、先生はこう聞いてきました。「結局、イエス様はあなたにとってどんな方なの」。生意気な神学生はこう答えました。「どうって、もちろん、そこに書いたような救い主ですよ」。するとさらに先生はこう言ってきました。「そう、確かに書いてありますね、最後の2行で。でも原稿用紙3枚使って自分のことを書いているのに、イエス様が2行って、どうでしょう」。要するに、ひどくバランスが悪かったのです。証しとは、イエスがキリストであることを証言するものです。自分のことばかりを書いて、イエス様にはほとんど触れないならば、証しとは呼べません。あるいはこの逆の場合もあるでしょう。自分の生活や内面にはまったく触れず、神学書から引用してきたような教理の解説ばかり、イエスが生きて働く方というよりは額縁に飾られているような証しです。使徒たちは「イエスがキリストであることを宣べ伝え続け」ました。彼らはイエスが救い主キリストであることを伝え続けました。誰にとって、救い主でしょうか。まず私にとって救い主です。私を救えない救い主が、他人を救うことができるでしょうか。そんな救い主を、他人に押しつけるわけにはいきません。ですから証しとは、毎日いかにキリストと血を通わせて歩んでいるかという自分への問いから生まれてくるのです。私たちは、イエス・キリストの証人です。ある人々も「○○○の証人」と名乗っていますが、彼らは証人というよりはまるで検事です。自分が実際に見たことは語らないけど、マニュアルに従って相手を追いつめていくことには長けています。私たちは、そのような人々に証人の看板を奪われたままでいてはなりません。キリストが私に何をしてくださったのかを語りましょう。語り続けましょう。キリストを信じることが、どれだけ測り知れない希望と平安を与えるのかを語っていきましょう。今日の区民音楽祭も、その賛美の歌詞ひとつ一つを、証しの言葉として紡ぎ出していきましょう。
参考資料:ビジネス心理研究所「20世紀名言集〜スポーツマン篇」(情報センター出版局、2000年)