ようやく本来の秋晴れが戻った一日でした。それぞれの健康が支えられますように。今週の週報はこちらです。
聖書箇所 使徒の働き6章1-7節
1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、6 この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。
※録音上の手違いで、前半(最初から17分頃まで)音声が入っておりません。申し訳ありませんがその部分は説教原稿をご参照ください。
序.
私が中学二年生の頃、ちょうど今頃の季節のことです。突然、左脚にずきずきと痛みが走るようになりました。すぐ医者に行けばよかったのですが、その頃卓球部だった私は、念願の大会出場を控えていました。もしそれに出れなくなったらどうしようという不安もあり、診断を受けるのをためらっていました。知り合いに相談したら、それは「成長痛」じゃないかと言われました。成長期にある骨が筋肉や靱帯を巻きこんで脚が痛むことがある、でもそのうちおさまるよと言われて安心してしまったのがいけなかったんですね、そのうちものすごく痛くなってきて、とても卓球どころじゃない。総合病院で見てもらいました。すると診断結果は「若年性骨肉腫」、左足の半月板に腫瘍ができていました。そこからまた色々大変なことがあったのですが、その続きはまたいつか改めて語りたいと思います。
1.成長のかげで、問われる弟子道
今日まず一緒に考えたいのは、私たちは教会に起こる小さなきしみを「成長痛」として放置してはいないだろうか、ということです。初代教会に起こった問題は、成長に伴う痛みでした。今日描かれているできごとは、「弟子たちが増えるにつれて」と前置きされています。かつて120人程度の小さな群れだった教会は、毎日救われる人々が起こされて、今や数千人の群れとなっていました。急激な成長の中で、まずギリシャ語とヘブル語という言葉の違いから来るコミュニケーションの問題が出てきました。さらにそこから、おそらく少数派であった、ギリシャ語しか話せないやもめたちに対する配給の問題が生まれてきました。「成長痛」というのは病気というよりは、成長の証しと言われることもあります。体が成長するからこそ、痛みが起こる。放っておけばそのうちおさまる、という医者もいます。しかしこれらを使徒たちが「成長痛」と受けとめて真剣に取り組んでいなかったら教会はどうなっていたでしょうか。
教会はキリストの生けるからだですから、常に成長を続けます。たとえ礼拝出席者や受洗者の数が増えていかないとしても、それは目に見えるものにすぎません。地上のそれぞれの教会は、目に見えない教会のからだのひとつの部分であり、成長し続けます。しかしその中で気をつけなければならないのは、自分たちの成長がみことばに根ざした成長であるのかということです。
みなさんは、今日の聖書箇所の中で「弟子」という言葉が繰り返し語られていることにお気づきでしょうか。じつはこの使徒の働きの3章から5章に至るまで、弟子という言葉は一回もでてきません。しかしこの6章で著者ルカは、まるで堰を切ったかのように弟子という言葉を繰り返し使うのです。1節では「弟子たちがふえるにしたがって」、2節「弟子たち全員を呼び集めて」、そして7節「弟子の数が非常に増えていった」。それは、この食料の配給にまつわるトラブルという中でこそ、彼らがキリストの弟子であるという事実が試されていくからです。間違えないでください、食料の配給がなおざりになっている、だったら担当者を7人くらい立ててしっかりやりましょう、という程度の話であれば「弟子」ということばを強調する必要はないのです。しかしここで「弟子」が繰り返し使われている理由は、食料の配給という身近な問題は氷山の一角にすぎず、その下にははるかに深刻な問題が隠れていることを示しています。ここでどう対処するかを通して、キリストの弟子としてふさわしいかどうかが試されていたのです。
2.みことば不在の教会
ではその、水面下に隠れている、はるかに深刻な問題とは何でしょうか。それは、教会がみことばによって動いていないということです。使徒たちはこう語りました。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません」。ここで「あと回しにして」と訳されている言葉は、他の聖書箇所では「見捨てる」とも訳されています。使徒たちはここで食料の配給よりも、みことばの奉仕のほうが優先順位が高いんだと言っているのではないのです。食料の配給も大事だけど、私たち使徒にとって説教を語るほうが大事なのだと言っているのではないのです。「私たちは神のことばを捨ててしまっている」と言っているのです。私たちとは、使徒だけはない、すべての弟子を名乗る者たちのことです。
教会とは何のためにあるのか。あなたがたはなぜここに集まっているのか。それは神のことばを聞くために来ているのだろう。そして私たち使徒は神のことばを語るために召されている。ならば聞こう、教会のいのちである神のことばをひとり一人が聞くために集まっていながら、なぜ神のことばがあなたがたの問題を解決する力となっていないのか。教会のあらゆる営みは、みことばへの応答としてなされていかなければならない。だが、今起こっていることは何だ。食料の配給という問題に対しても、みことばに示されて気づかされるのではなく、問題が大きくなって苦情の申し立てがなされて、ようやく動いている。それは民主的ではあっても聖書的とは言えないだろう。この現実は、みことばがあなたがたの生活の中で見捨てられていることなのだと、あなたがたは気づかないのか、と。
日本語の聖書の翻訳は、このときの使徒たちの言葉の激しさをずいぶん薄めてしまっているようです。「見捨てて」が「後まわしにして」とされているだけではなく、「よくありません」、これは「みこころにかなっていない」と訳すべきことばです。さらに言えば、「私たちはもっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」もそうです。「休日はもっぱらテレビを見て過ごします」じゃないんだから、「もっぱら」とか使ってほしくない。これは使徒たちの悔い改めの告白なのです。教会の中で、人々がみことばではなくて多数派原理によって動いている。これは牧会の敗北であり、神のことばを見捨てて、無力にしてしまった私たちの罪です、と使徒たちが涙を流して悔い改めている。そのような緊張感の中で私たちはこの箇所を理解しなければなりません。このとき、教会は数においては成長していたが、大変な危機の中にありました。それは配給がないがしろにされているとか、コミュニケーションが足りないという問題を突きぬけて、みことばが人々を改革していく力たりえていない事実が露わになっていたのです。
3.7人の執事
今日の箇所は、食糧配給といった現実の問題に対応するために7人の執事を選び、教会組織を固めたということがポイントではありません。むしろ大切なのは、食料配給に象徴される教会内の諸問題に、みことばをもって取り組んでこなかったひとり一人がもう一度悔い改めて、みことばを中心とする教会となるために必要な体制を整えたということです。知恵と聖霊に満たされた7人の執事の筆頭にステパノの名前が挙がっています。彼はこの「使徒の働き」の中で、最も長く、最も旧約聖書に忠実な説教を語って、人々に石打ちにされて殺されていく、最初の殉教者でした。この事実は、この選ばれた7人が実務に長けた人々というよりは、あくまでも使徒たちの霊的なサポーターとして選ばれていたことを示しています。使徒たちの抱えているみことばの奉仕がどれほどの重さを持っているのか知っており、そのために命を捨てる覚悟を持った人々を神は選ばれたのです。
私たちの教会にも「成長痛」として見えるものがあります。ここに30人いれば、少なくとも30通り以上の問題点を、それぞれが教会の中に見いだしているでしょう。教会が救われた罪人の集まりである以上、問題があること自体は仕方のないことです。しかし私たちがその目に見える問題を、みことばによって正していこうとしないのであれば、それは仕方ないの一言では片付けられません。何のために私は語り、何のためにあなたがたは説教を聞いているのか。それは聖霊が語ってくださる神のことばを通して、問題に気づかせていただき、立ち向かっていくためにです。かつての私のように、腫瘍を成長痛と勘違いして、気づいたときには手遅れであったということにならないように。そのための処方箋は、語られたみことばが自分の中に根付いていくように常に聖霊に求めながら歩んでいくことです。あなたは今日の朝食は何を食べてきましたか。昨日の朝食は何を食べましたか。一週間前の朝食は何を食べましたか。みことばはそうであってはならないのです。受け取ったみことばをかみしめて、その場限りの経験で終わらせないこと。自分が直面している問題を、自分の知恵や経験で解決しようとするのではなく、みことばを心の引き出しから取り出して立ち向かっていくこと。どうかそのことを忘れずに、今日から歩んでいただきたいと願います。