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2013.11.24「飾りなき心をもって」

 祝福がありますように。豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
今週の週報はこちらです。

今日は礼拝の中で献児式があり、お母さんがこの日に至るまでの証しをされました。未信者であるご主人様も来てくださり、恵みにあふれた一時でした。



聖書箇所 マタイの福音書15章21-28節
 21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

 「三つ子の魂 百まで」という言葉があります。私はこの「三つ子」を3歳児と理解していましたが、ある人からこれは昔の3歳児、つまり数え年での3歳児だと教えられました。数え年って何ですかと聞いたら、生まれた時にまず1才、次の元旦で2才、そして以後元旦のたびに1才ずつ数えていく、と。これによれば「三つ子の魂」というのは実際には3才より一年以上早まります。今日は猪爪美来ちゃんの献児式を迎えましたが、彼女は昨年の10月に生まれましたので、数え年だと今度のお正月にもう3才です。もっともこれは美来ちゃんだけじゃなくて、祈詩ちゃんも愛花ちゃんもみんな仲良く3才になります。でもみんな違っていますね。違っててもいいと思いますし、むしろ違ってるからいいと言えるでしょう。「かけがえのない」という言葉は、「代わりになるものがない」という意味です。美来ちゃんの代わりは誰もなれないし、和美お母さんの代わりは誰もなれない。その一日一日の格闘が今は出口の見えないものであったとしても、いつかはただ懐かしく思えるような時になるのだと思います。
 「思います」というあやふやな表現しかできないのは、私は親となった経験がないからです。この一、二年、小さないのちがこの教会という小さな家族に与えられる恵みをおぼえながら、しかし申し訳なさを感じてきました。若いママたちが子育ての中で奮闘している姿を見ながら、何も有効なアドバイスができないからです。奮闘というよりは苦闘に見えます。がんばっているというよりはもがいていると言ったほうが正しいかもしれません。しかし妻からあるときこう言われました。すぐに助言や解決を出そうとするのがあなたの悪いくせだ、と。必要なのは助言を与える人ではなくて、寄り添ってくれる人なのでしょう。苦闘し、もがいている人に必要なのは、高い所からの言葉ではなく、言葉を突きぬけて、あなたと一緒に私も苦しむ、もがくという呼びかけです。そしてそれを与えられる方こそ、私たちのために命を捨ててくださったイエス・キリストです。今日、そのイエス様に自分の子どもをゆだねますという決意を示したひとりの姉妹の姿をおぼえながら、私たちはみことばを心に刻みつけていきましょう。

 名前も記されていない、このカナン人の女性は、イエスの言葉にあきらめませんでした。神は、言葉を突きぬけて彼女に挑みかかっていきました。そして彼女はそこから逃げなかったのです。まず注目していただきたいのは22節から始まる最初のやりとりです。彼女は叫びました。「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです」。しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった、と。なんとひどい救い主なのか。そのように拳を握りしめたくなります。しかしイエスの沈黙こそが、彼女が、そして私たちが、自分の叫びが本当に叫びとなっているかということを思い起こさせるのです。
 彼女はユダヤ人から見て異邦人でした。ユダヤ人は、自分たちを神に選ばれた羊と呼び、彼ら異邦人を「犬」と呼びました。それは自分の吐いたものに転がる、汚い野良犬、日本語で言うと「犬」よりは「畜生」のほうがしっくりする差別用語です。しかしこの女性の言葉に注目しましょう。彼女は、彼ら異邦人を畜生呼ばわりするユダヤ人の特有の言い回しである「ダビデの子」とイエスに叫びます。しかしイエスは一言も答えなかった。しかしすでにこの沈黙にひとつのメッセージがあったのではないでしょうか。「ダビデの子」という、彼ら異邦人にとって、無理をしての借り物の言葉である呼びかけを、イエスは拒絶されました。なぜ異邦人であるあなたがわたしをダビデの子と呼ぶのか。なぜあなたは、自分の言葉ではなく、あなたを差別しているユダヤ人の言葉で私に叫ぶのか。

 神は人間を裸で造られました。そして人間は罪を犯したとき、裸であることを恥じるようになりました。今も人間は、神様に裸で近づくのを恐れます。しかし神は私たちが裸で近づくことを望んでおられるのです。裸とは、何もまとっていないことです。裸になるとは、自分がまとっているものを捨てることです。今のプライドを捨てよ。過去の成功体験を捨てよ。将来の不安を捨てよ。何もまとわず、何も飾らず、ただこの身一つで神に近づいていけ。その時に神は私たちの言葉に答えてくださる。言葉は、おのれを隠し、おのれを飾る鎧にもなるのです。このカナン人の女性は、ユダヤ人流の呼び方、「ダビデの子」という言葉でイエスに近づこうとしました。しかしそれはかえって彼女の心を覆い隠すものであることをイエスを知っていました。ユダヤ人に犬と呼ばれ、差別されてきたその心を隠す必要はない。むしろありのままの姿で私に近づきなさい、と。
 言葉で自分の心を覆って近づく彼女に対して、イエスもまた冷淡な言葉で臨んでいるかのようです。弟子たちに対しては、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」、そしてイエスの前にひれ伏した彼女に対しては「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と。まるであえて彼女を怒らせるためのように聞こえます。しかしむしろ、それらの言葉は彼女の信仰を高みへと導くためでした。その言葉の壁をよじのぼり、彼女は自分を認めました。ユダヤ人ではなく異邦人であるという現実を。しかし現実を受け入れた上での彼女の言葉は凜と響きました。「主よ、そのとおりです。ただ小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」
 ある神学者(サミュエル・ラザフォード)は、こんな言葉を残しています。「まことの信仰は、神の荒々しい一撃からさえも、その恵みをかぎわける」。私たちは、人生でさまざまな壁にぶち当たります。神がすべてを導いておられるのであれば、なぜこんなことが次から次へと起きてくるのか。そう叫びたくなる時があります。しかしそれは、神が私たちの信仰をより高みへと引き上げるための試練です。信仰とは、何があっても神が守ってくれるという安易な現実逃避ではありません。神の与える現実、そして神のことばそのものが私たちを途方に暮れさせる、生きるというその困難さの中で、神の恵みをかぎわける力を与えてくれるのがまことの信仰です。そしてこの女性は、キリストの言葉さえも壁となって立ちふさがる中で、その壁を信仰によって越えていきました。その時、彼女にはとっておきの言葉が与えられたのです。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」。

 養老孟司という解剖学者が「三つ子の魂 百まで」について、こういったことを言っています。「これは幼児期に得たものは100才まで残るから、3才までにしっかり教育せよなどという意味ではない。人間は年をとるに従ってどんどん成長し、考えも変わっていく、それなのにいくつになっても幼い頃と変わらずに保っているところがある、その凄みというものに昔の人たちがただただ感動した言葉なのだ」。大人になるにつれて、私たちは本当の自分を言葉で隠す術を身につけていきますが、幼子のようにありのままの姿を恥としない、そういうところはいくら大人になっても心のどこかに失われずに残っているということです。大人の世界ではそれを悪いもののようにとらえますが、しかし神は、むしろ私たちがそれを隠さないで神に打ち明けてくれることを願っているのです。お腹がすいたら泣き叫び、目にとまったものには危険も考えずに近づく。親としては気が休まる暇がないのでしょうが、そんな彼らの率直な生き方の中にこそ、神の喜ばれる信仰の姿があります。今日の献児式は、両親が子どもをささげるという意味だけではなく、教会が子どもをささげていくという意味もあります。ひとり一人の教会員が、今日美来ちゃんを神にささげたことをおぼえ、ご両親を支えていく決意を新たにしていくことができるようにと願います。
posted by 近 at 11:17 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
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