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2013.12.1「不愉快な救い」

 祝福がありますように。豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
今週の週報はこちらです。

聖書箇所 使徒の働き6章8-15節
 8 さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。9 ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。10 しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。11 そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた」と言わせた。12 また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会にひっぱって行った。13 そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。14 『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」15 議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。


序.
 今年の夏に公開された「少年H」という映画があります。ご覧になった方もおられたかもしれませんが、戦前、戦後の神戸に生きた一家族の生活を描いたものです。主人公であるHの父母はどちらもクリスチャンでした。映画では父親役は「相棒」で有名な水谷豊さんが演じました。これは敬和の小西校長から聞いた話ですが、じつは水谷さんは子どもの頃、北海道の芦別市で暮らしており、芦別の教会学校に通っていたそうです。「H」の母親はとにかく伝道熱心なクリスチャンなのですが、水谷さんは台本を見たときに、「この母親を演じる女優として真っ先に頭に浮かんだのが、自分の妻だった」と。お二人はクリスチャンではないようですが、何か嬉しくなる話ですね。「少年H」の原作に、こんな話が出てきます。
 戦争が始まる昭和16年12月、「クリスマスを自粛し静かにするように」という文書が警察から教会に送られてきました。そこにはこんなことが書かれていました。「12月25日は大正天皇の亡くなられた日に当たるから、その日にヤソの誕生を祝うとは不敬きわまりない」。そして12月25日、教会は会堂の窓という窓を黒いカーテンで覆って中が見えないようにしてクリスマス礼拝をささげました。それから数日後、父親はHと二人きりになったとき、おもむろにこう語りました。「あのな、これからいうことをなんであんただけに話すかというと、これからいろんなことが起こるのを自分の目でしっかり見ときよ、といいたいからや。クリスチャンへの弾圧もきつうなると思う。自分がしっかりしとかなんだら、潰されてしまうよ。この戦争が終わったとき、恥ずかしい人間になっとったらあかん」(妹尾河童「少年H 上巻」講談社文庫、1999年、298頁)。

1.
 今日から始まる待降節は、四週間にわたってキリストの降誕を待ち望む、恵みの時です。多くの教会では、四週分のローソクを灯すための特別な燭台を用意して、毎週の礼拝毎に一つずつ灯していきます。しかし私たち日本の教会にとって、この12月はもうひとつ大きな意味があります。教会が戦争をとどめるどころか、むしろ世に流されて戦争に協力したこと。さらには天皇を現人神として礼拝した罪を教会自ら率先して行ったことを思い起こさずにはいられない時でもあります。カーテンを閉め切ってまでクリスマス礼拝を守った、Hの通う教会でしたが、やがて「この戦争に勝てますように」と教会員がためらうことなく祈るようになりました。H少年はその姿に失望し、礼拝から離れていきます。日本のほとんどの教会がそうなっていったのです。「この戦争が終わったとき、恥ずかしい人間になっとったらあかん」とHの父親は言いました。「恥ずかしい人間」とは、教会につまずき教会を去っていったHに向けられるものでしょうか。いいえ、時代の流れの中で何が正しくて何がまちがっているのかを見失っていった教会の大人たちへの言葉になりました。キリスト教の福音とは「よい知らせ」という意味ですが、それは信仰を持てば悩みもなく、平和に暮らしていけるという「虫のよい」知らせではありません。むしろ信仰を得たゆえに、私たちは本当に戦わなければならない相手に気づくということです。

 ステパノは「恵みと力とに満ち」、また「知恵と御霊によって」人々に福音を語りました。しかしそれによってリバイバルが起きた、ではなくむしろ民衆さえも扇動されて、ステパノを捕らえて裁判につけたことが記録されています。かつてイエス・キリストもまた偽の証言によって捕らえられ、最高議会に立たせられました。人々は、まったく同じやり方でステパノを攻撃しました。私たちは、これが、私たちの向かい合っている世の姿なのだということを忘れてはなりません。聖書を語れば語るほど、そこに起こるのは信じる人々ではなく、福音に歯をむき、ねじ伏せようとする人々の反対なのです。私がこの豊栄教会の牧師として就任したとき、敬和学園大学の北垣宗治学長から本をいただきました。ご自分が敬和で話されたことをまとめたものでしたが、その中に収められたひとつの文章にこうありました。「真理は不愉快なもの」。なぜ不愉快なのか。それは、真理は私たちの生き方を肯定せず、むしろ自己満足の現状に挑戦するからだ、と。真理は私たちの罪をあばく。真理は私たちがこじんまりとした幸福の中に引きこもることを攻撃する。真理は今日、イエスに従う決断へと私たちを引き出そうとする(北垣宗治「大学は面白いところ」考古堂書店、2001年、145頁以下)。

2.
 だから人々は、真理を語るイエス・キリストを捕らえて十字架へとつけたのです。そして同じように福音を語るステパノを、まったく同じ方法で殺そうとしたのです。教会の二千年間の歴史の中で、常にそれが繰り返されてきたのです。現代の日本ではどうでしょうか。もちろん人々は手に剣や銃をもって教会に向かってくることはないでしょう。しかし心の奥底にあるものは、二千年間変わることはありません。あなたが福音を伝えるとき、人々はどのように対応してくるでしょうか。「ああ、クリスチャンですか!すばらしい信仰をお持ちですね」と手を差し出してきますか。いいえ、私たちが福音を人々に伝えようとするならば、むしろ彼らは牙をむいてくるのです。人々が欲しがっている「救い」と、私たちの語る「救い」は同じものではありません。「真理は不愉快なもの」という先の言葉をお借りするならば、世が求めている真理とは「愉快な救い」です。何も痛まない。何の犠牲もいらない。自分を変える必要もない。ぬるま湯のような自分の世界にとどまりながら、それでも「あなたは救われている」と言ってもらえる。それが「愉快な救い」です。しかし私たち教会は、世に本当の救いを語ります。イエス・キリストがあなたのために命を捨ててくださった、と。本当の救いは、「不愉快な救い」です。イエスの血潮という犠牲に報いるために、あなたは何を犠牲にするのか、と迫ってくるのが本当の救いです。それは何も変えたくない人々にとっては、不愉快以外の何物でもありません。しかしイエスの十字架は、その不愉快を突きぬけた先にこそ、永遠のいのちがあると叫ぶのです。キリストが歩まれたように、あなたも歩め。キリストが仕えられたように、あなたも人々に仕えよ。キリストが戦われたように、あなたも罪の誘惑と戦え。キリストが愛されたように、あなたも隣人を愛せよ。キリストがいのちを捨てられたように、あなたも誰かのために命を捨てよ、と。

3.
 「キリストのように」。それを実践したのがステパノでした。キリストのように恵みと御霊にあふれ、キリストのように議会に引き立てられていきました。私たち、「普通のクリスチャン」にはイエスのように生きることも、ステパノのように生きることも不可能でしょうか。いいえ、ステパノこそ「普通のクリスチャン」でした。彼は12使徒のひとりでもなく、また何か特別な賜物を持っていたわけでもありません。「恵みと力」、「知恵と御霊」、それらはすべての救われたクリスチャンに与えられるものです。聖書にはっきりと書いてあることは、私たちは聖霊をいただかなければ、イエスを救い主と告白することはできないということです。そして聖霊は私たちの中に住んでくださいます。何があっても決して見捨てることはありません。多くのクリスチャンの過ちは、聖霊が与えられているのに与えられていないと自分で決めつけることです。しかしそれさえも、私たちを聖霊の恵みから引き離すものではありません。だから私たちは自分の心に、階段を上っていくような質問を投げかけていくべきでしょう。私はクリスチャンだろうか。私は信じた時に聖霊を受けただろうか。私は聖霊に満たされているだろうか。ここで「?」じるしがつく人もいるでしょう。だがそんなときは、元気よくこう答えてください。「いいえ」!満たされていません、と。聖霊が始めてくださった信仰生活が、いつのまにか自分中心の生活になっていたことを認めればよいのです。認めたときに、もう一度始まるのです。欠けを認めたときに、私たちははじめて満たしを求めることができるのです。
 求めましょう。願いましょう。祈りましょう。ステパノに向かって牙をむく人々に対し、ステパノ自身はまるで「御使いの顔のように見えた」と最後の節にあります。人々はステパノがモーセに逆らっていると攻撃しました。しかし旧約聖書には、モーセが神の前から出て来たとき、彼の顔は光を放って誰も近づくことができなかったという記録があります。たとえ人々がステパノをモーセに逆らう者として訴えても、神は本当に逆らっているのはどちらなのかということをご存じなのです。私たちが福音を伝えるとき、世は私たちを激しく攻撃し、訴えるでしょう。しかしそれでも伝えたい。いや、伝えなければならない。この「不愉快な真理」だけが人々を救うことができるのですから。ひとり一人の内に生きておられる聖霊が語らせてくださいます。御霊におゆだねして歩んでいきましょう。

posted by 近 at 08:52 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
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