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聖書箇所 使徒の働き7章1-43節
1 大祭司は、「そのとおりか」と尋ねた。
2 そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて、3 『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け』と言われました。4 そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、ハランに住みました。そして、父の死後、神は彼をそこから今あなたがたの住んでいるこの地にお移しになりましたが、5 ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。それでも、子どももなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。6 また神は次のようなことを話されました。『彼の子孫は外国に移り住み、四百年間、奴隷にされ、虐待される。』7 そして、こう言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしがさばく。その後、彼らはのがれ出て、この所で、わたしを礼拝する。』8 また神は、アブラハムに割礼の契約をお与えになりました。こうして、彼にイサクが生まれました。彼は八日目にイサクに割礼を施しました。それから、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブに十二人の族長が生まれました。9 族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました。しかし、神は彼とともにおられ、10 あらゆる患難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で、恵みと知恵をお与えになったので、パロは彼をエジプトと王の家全体を治める大臣に任じました。11 ところが、エジプトとカナンとの全地にききんが起こり、大きな災難が襲って来たので、私たちの父祖たちには、食物がなくなりました。12 しかし、ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、初めに私たちの父祖たちを遣わしました。13 二回目のとき、ヨセフは兄弟たちに、自分のことを打ち明け、ヨセフの家族のことがパロに明らかになりました。14 そこで、ヨセフは人をやって、父ヤコブと七十五人の全親族を呼び寄せました。15 ヤコブはエジプトに下り、そこで彼も私たちの父祖たちも死にました。16 そしてシケムに運ばれ、かねてアブラハムがいくらかの金でシケムのハモルの子から買っておいた墓に葬られました。17 神がアブラハムにお立てになった約束の時が近づくにしたがって、民はエジプトの中にふえ広がり、18 ヨセフのことを知らない別の王がエジプトの王位につくときまで続きました。19 この王は、私たちの同胞に対して策略を巡らし、私たちの父祖たちを苦しめて、幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしました。20 このようなときに、モーセが生まれたのです。彼は神の目にかなった、かわいらしい子で、三か月の間、父の家で育てられましたが、21 ついに捨てられたのをパロの娘が拾い上げ、自分の子として育てたのです。22 モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。23 四十歳になったころ、モーセはその兄弟であるイスラエル人を、顧みる心を起こしました。24 そして、同胞のひとりが虐待されているのを見て、その人をかばい、エジプト人を打ち倒して、乱暴されているその人の仕返しをしました。25 彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。26 翌日彼は、兄弟たちが争っているところに現れ、和解させようとして、『あなたがたは、兄弟なのだ。それなのにどうしてお互いに傷つけ合っているのか』と言いました。27 すると、隣人を傷つけていた者が、モーセを押しのけてこう言いました。『だれがあなたを、私たちの支配者や裁判官にしたのか。28 きのうエジプト人を殺したように、私も殺す気か。』29 このことばを聞いたモーセは、逃げてミデアンの地に身を寄せ、そこで男の子ふたりをもうけました。30 四十年たったとき、御使いが、モーセに、シナイ山の荒野で柴の燃える炎の中に現れました。31 その光景を見たモーセは驚いて、それをよく見ようとして近寄ったとき、主の御声が聞こえました。32 『わたしはあなたの父祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。』そこで、モーセは震え上がり、見定める勇気もなくなりました。33 すると、主は彼にこう言われたのです。『あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたの立っている所は聖なる地である。34 わたしは、確かにエジプトにいるわたしの民の苦難を見、そのうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下って来た。さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう。』35 『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現れた御使いの手によって、支配者また解放者としてお遣わしになったのです。36 この人が、彼らを導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年間荒野で、不思議なわざとしるしを行いました。37 このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる』と言ったのです。38 また、この人が、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの父祖たちとともに、荒野の集会において、生けるみことばを授かり、あなたがたに与えたのです。39 ところが、私たちの父祖たちは彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って、40 『私たちに、先立って行く神々を作ってください。私たちをエジプトの地から導き出したモーセは、どうなったのかわかりませんから』とアロンに言いました。41 そのころ彼らは子牛を作り、この偶像に供え物をささげ、彼らの手で作った物を楽しんでいました。42 そこで、神は彼らに背を向け、彼らが天の星に仕えるままにされました。預言者たちの書に書いてあるとおりです。『イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、ほふられた獣と供え物とを、わたしにささげたことがあったか。43 あなたがたは、モロクの幕屋とロンパの神の星をかついでいた。それらは、あなたがたが拝むために作った偶像ではないか。それゆえ、わたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ移す。』
序.
神学校で忘れられない授業のひとつに、「説教演習」という科目がありました。他の授業と違い、この説教演習では、先生の講義はありません。かわりに3人の神学生が、あらかじめ与えられた聖書箇所の説教原稿を準備して、一人ずつ発表、つまり説教をします。与えられた時間はきっかり20分。これより短くても長くてもいけません。今でも牧師がそうしてくれたらいいのにという声はさておき、20分説教し、その後の10分間でクラスメイトと指導教師がその説教についての感想を述べます。別の神学校の話ですが、あるとき、韓国から来ていた神学生が20分のところをなんと一時間話してしまったことがあったそうです。途中教師が何度も目配せしたのですが、彼はまったく意に介せず語り続けました。一時間後、満足げに講壇を降りて来た彼に、クラスメイトは非難ごうごう、しかし彼は落ち着いてこう言いました。「韓国では、説教は長いほど喜ばれます」。
1.
さて、ステパノがこんなに長い説教をしたのは、決して人々を喜ばせるためではありませんでした。彼は聴衆に思い起こさせようとしているのです。彼の説教の長さは、どれほど神が長い年月を忍耐してくださっているのかという恵みの深さを表しています。ユダヤ人は、自分たちは神に選ばれた民であると誇り、目に見えない神よりも目に見える神殿を心の宝としていました。そしてステパノが神殿を破壊しようとしていると吹聴し、偽りの証人さえ用意して裁判に訴えました。ステパノの説教の長さは、そんなユダヤ人たちの、罪を罪と気づかない、心の底知れぬ深さをも表しています。その底なし沼のような心に届かせるために、どうしても多くの言葉を割かなければならなかったのです。彼はユダヤ人が誇りとする祖先たちの名前をひとり一人、これでもかこれでもか、と並べていきます。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、さらにダビデ、ソロモン。この先人たちの信仰を見よ、と。ただ恵みによって神にしがみついた彼らの信仰を見よ。だが今あなたがたユダヤ人の心は、恵みから離れ、殺意にまみれている。あなたがたの歴史を顧みよ。あなたがたは自分たちはアブラハムの子であると誇っている。だが現実を見よ。歴史を見よ。あなたがたは神に最も愛された民でありながら、常にその神の恵みを踏みつけてきたのだ、と。
かつてドイツの大統領ヴァイツゼッカーは、ユダヤ人虐殺への謝罪演説の中でこう述べました。「過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目となる」。「目を閉ざす」とは見るのをやめてしまうことではなく、美化してしまうことでもあります。二千年前のユダヤ人は、自分たちがアブラハムの子孫であることを何より誇っていました。モーセを通して与えられた神の律法を守っていることを誇っていました。しかしステパノは、彼らの誇りは、ただ過去を美化しているにすぎない、空しい誇りだと指摘します。モーセが十戒を与えられているその瞬間に、早くも金の子牛を造って拝んでいたのは誰か。他ならぬあなたがたの先祖たちではないか、と。それは自分たちを神の民であると豪語するユダヤ人たちにとって、心をえぐられるような辛辣な言葉でした。しかしステパノは容赦しません。旧約の預言を引用して、彼らの偽善を暴きます。「イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、ほふられた獣と供え物とを、わたしにささげたことがあったか。あなたがたは、モロクの幕屋とロンパの神の星をかついでいた。それらは、あなたがたが拝むために作った偶像ではないか」。
ステパノは、律法と神殿をないがしろにしている疑いによって訴えられました。罪状を確認する大祭司の質問に対して、彼はそれが誤解であるとは弁解しません。その代わりに彼は訴えます。本当にあなたがたはそれほどまでに律法を大事にしてきたのか。神殿を大事にしてきたのか。本当に大事にすべきは律法ではなく、律法を与えた神ではないか。神殿ではなく、神殿を建ててくださった神ではないか。命をかけて訴えるステパノの問いかけは、今日の私たちにも向けられています。私は確かに聖書を読み、熱心に祈り、献金をささげ、礼拝や祈祷会を守っているかもしれない。だが自分の一週間の生活を一皮むけば、そこには世の人々と何ら変わりない生き方ではないだろうか。イエスを知らない人と同じ規準で善悪を判断し、自分の行動を決め、神のみこころを求めることもないまま進めてしまう。しかし神が求めているのは、クリスチャンのように生きることではなく、クリスチャンとして生きることです。クリスチャンらしく生きることではなく、クリスチャンとして生きることである。その違いは何でしょうか。日曜日だけ。見かけだけ。クリスチャンっぽく。でも私の心の中をすべて知っておられる神様の前に何も隠したり取り繕うことはできない。たとえ自分の中に汚いものばかりがつまっていたとしても、それも含めて自分のすべてを神に差し出していく。それがクリスチャンらしくではなく、クリスチャンとして、生きていくということです。
2.
神が最も嫌われるのは高慢、そして高慢が生み出す偽善です。ユダヤ人たちは、自分がアブラハムの子孫であることを誇り、自分たちこそが正義であると考えていました。その高慢と偽善の中で彼らはイエスを十字架につけ、今ステパノも罪に定めようとしていました。自分で何をしているかわからない同胞に対し、ステパノは悲しみを説教の言葉ひとつ一つに埋め込みながら、語り尽くそうとします。彼が多くの人々の名前を挙げる中で、特にヨセフとモーセについて丹念に語っていることに注目しましょう。ステパノが彼らを詳しく語るのはなぜでしょうか。それは、この二人が一度人々に拒まれ、二度目に受け入れられるという経験をしているからです。ヨセフは兄弟たちにエジプトに売られました。しかし二度目に兄弟たちの前に現れたとき、和解が生まれました。モーセはひとりの同胞をエジプト人から助け出したとき、人殺しとして拒絶されました。しかし二度目に再びイスラエル人の前に戻ってきたとき、解放者として認められました。一度は拒まれた者が、二度目は受け入れられていく。ステパノが語ろうとしたのは、じつはヨセフでもモーセでもありません。イエス・キリストです。二千年前、イエスは救い主としてご自分の民、すなわちユダヤ人の中にお生まれになりました。しかしヨセフのように、モーセのように、人々は彼を受け入れませんでした。かえって彼を迫害し、十字架につけたのです。そして今も心をかたくなにし、福音を受け入れようとしない。しかしヨセフのように、モーセのように、二度目があるのだ。もしあなたがたユダヤ人がイエスを十字架にかけた罪を悔い改めるならば、あなたの心にはキリストがもう一度訪れてくださる、と。
ステパノがユダヤ人に語ったのと同じメッセージを、私たちも神からゆだねられています。ある社会学者が、現代日本を「やり直しのきかない世界」と表現していました。一度レールから外れたら、容易に戻ることはできない。それが今の日本に流れている、暗黙のルールであると。「ひきこもり」はかつては10代、20代の人々に使っていた言葉でしたが、今はそれが中高年にも用いられています。かと思えば幼稚園児が「昔は良かった」とつぶやくといった冗談にしか聞こえない話も耳にします。
しかしやり直しがきかないと信じられている世界だからこそ、私たちはやり直しを経験している者として、ここに生かされているのです。兄弟たちに見捨てられたヨセフが、再び彼らにまみえたとき、そこに和解が生まれました。同胞に受け入れられなかったモーセが、再び同胞の前に出たとき、そこに解放が生まれました。それらは私たちが人々に堂々と語っていけることばです。人生は、彼らが象徴する、イエス・キリストへの信仰において、いつでもやり直すことができる。証しというのは立派な自分を伝えることではなく、こんな自分だけどキリストがいつでも新しくしてくださると伝えることです。美化した自分ではなく、自分の罪や失敗に目をそむけることなく受け入れてくださるイエス・キリストを伝えます。ステパノの説教の長さは、イエス・キリストの言葉に言い尽くすことのできない恵みの深さでもあります。待降節も二週目に入りました。どうかひとり一人が、救い主イエス・キリストを味わい、人々に語っていく一週間となるように。